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一日一回の食事の戒律 中部教典 第65経 「跋陀和利経」(バッダーリ経)
《ブッダが一日一回の食事の戒律を語る》
ある時、ブッダは修行僧たちに語りかけました。
わたしは一日一回の食事ですごします。
そうすることで、病気も少なく、身体も軽く、
元気に過ごせることに気付きます。
あなたたちも一日一回の食事で過ごしなさい
修行者のひとりバッダーリは「一日一回では耐えられません」と答えます。
ブッダは「それなら、布施でいただいた食事をその場で一部食べ、一部を持ち帰ってから残りを食べてもよろしい。あなたはそのようにして修行したらいい。」と伝えます。
バッダーリは「それでも堪えられません。不満です。」と答えます。
師の教えを守れない者として、まる三か月のあいだ、ブッダに面会しませんでした。
ほかの修行僧たちが、バッダーリを気にかけて「あの時の教えをよく考えなおしなさい。そしてブッダに会って後悔の無いように、お詫びしなさい」とうながしてくれました。
バッダーリはブッダに修学すべきことができませんでしたとお詫びに行きます。
ブッダは「あなたは他の修行僧が修学すべきことを実行しているときに、耐えられないと修学しませんでした。しかし、あなたは過ちを過ちとして認め、規範にしたがって謝罪しましたので、わたしはそれを許します。」
「師の教えを完全に実行しない修行者は、どこで過ごしても、人から非難され、また自分でも自分を非難して、ほんとうの智慧を体現しないのです。」
「逆に、師の教えを完全に実行する修行者は、どこで過ごしても、人からも非難されず、また自分でも自分を非難しないで、ほんとうの智慧を体現するのです。」
《ブッダは「四禅(しぜん)の瞑想修行」を明確に説明します。》
教えを完全に実行する修行者は、
瞑想の第一段階に達して、喜びと安楽を備えて過ごします。
さらに、瞑想の第二段階に達して、安定したこころから生じる喜びと安らぎで過ごします。
さらに瞑想は深まり、瞑想の第三段階に達して、物事に対して偏った心がない中庸(ちゅうよう)になっていて、注意力を備えて安楽(あんらく)で過ごします。
そして、瞑想の第四段階に入り、中庸さの注意力がもっとも清浄に到達して過ごします。
この第四段階の瞑想にはいると、こころが正しく統一された清浄な境地になるので、
しだいにかれには神通力(じんつうりき)が生じてきます。
過去の生存を想い起こす智慧の「宿住智」(しゅくじゅうち)の神通力で、前世の自分を思い起こして過ごします。そして、死んでから生まれかわって再生することをしる「死生智」(しせいち=天眼智・てんがんち)の神通力で、からだ・ことば・こころの悪い行いは、死んでから地獄に再生することを見ます。また、からだ・ことば・こころの善い行いをする者は、死んでから天の世界に再生することを見ます。
そこからかれは、こころから煩悩が漏れて出てくるのを消滅させる智慧の「漏尽智」(ろじんち)の境地で過ごします。
煩悩がないので、苦をありのままに知り、苦の原因をありのままに知り、苦の消滅をありのままに知り、苦の消滅へ導く実践をありのままに知るのです。
怒り・貪り・無痴(むち)の三毒(さんどく)の煩悩の欲望からこころが解脱します、
そこから渇愛(かつあい)の執着する生存(せいぞん)の心からも解脱します、
ついには、苦の根本原因である無明(むみょう)から解脱するのです。
かれは解脱したと知り、再びこの状態に再生することはないと知るのです。
《ブッダはバッダーリに、いましめの言葉で締めくくります。》
しかし、この説法を聞いたけど附(ふ)に堕ちないのか、バッダーリはブッダに次の質問をします。
バッダーリ「ある修行者は何度も罰が科せられ、あるちがう修行者はわずかな罰しか科せられないのはなぜですか?」
ブッダは答えます。
「自分が罪を犯しても反省をしない者は、何度も罰が科せられるのです。」「自分の罪を反省するものはわずかな罰しか科せられないのです。」
ブッダはたとえ話をまじえてさらに答えます。
「ここに仏教にたいして信じる気持ちが浅い修行僧がいるとします。
ほかの修行僧たちは「この修行僧の浅い信じる気持ちが無くなってはいけない。」と思いやりを持った対応で規律や罰を与えていきます。
それは「片目の人が、その片目を失うことがあってはならない」と守ろうとするのに似ています。」
さらに、バッダーリは次の質問をブッダに聞きます。
バッダーリ「なぜ、昔は規則が少なかったけど、悟ることができた修行僧は多かったのに、今は規則が多いにも関わらず、悟ることができる修行僧は少ないのですか?」
ブッダは答えます。
「ほんとうに正しい教えが、教えられていないときは修学する規則は多くなり、しかも悟れる修行者はすくない」
「仏教僧団が大きくなり、僧団のなかから悪い煩悩があらわれるとき、それを防ぐために規則がふえていく」
ブッダは過去にバッダーリに説法したことを話します。
ブッダ「以前に、若い駿馬(しゅんば)のたとえのはなしをしたのをバッダーリ覚えているか?」
バッダーリ「覚えていません」
ブッダ「あなたは師の教えの修学すべきことを満たさない者でした。あなたは教えを聞いても、思考し、考察し、耳を傾けて聞くことをしなかったのです。もう一度、若い駿馬のたとえをはなしましょう」
《ブッダ「若い駿馬」のたとえの説法》
「熟練された馬の調教師は、よい駿馬を手に入れたら、最初にはみを装着させます。
馬ははじめての経験なので混乱して暴れます。調教師は繰り返し、はみをつけて馬をならしていきます。そして、はみを付けるのになれると、次に歩調について調教し、さらに走ることを調教し、王様が乗るのにふさわしくなるまで、最高の調教を繰り返し行います。調教された馬は、調教された訓練を完全に習得して、王の足と呼ばれる駿馬となるのです。」
「修行者もこれと同じように、正しい教えの、正しい思考、正しいことば、正しい仕事、正しい生活、正しい努力、正しい注意力、正しいこころの統一、正しい智慧、正しい解脱をそなえていくと、礼拝されるにふさわしい修業完成者になるのです。」
バッダーリはブッダの教えをしっかり理解できたので歓喜しました。
このお経には四禅(しぜん)の瞑想から神通力を得て煩悩が尽きる漏尽智(ろじんち)の教えがでてくるね!
最後も八正道のことがでてくるね!
また図解の説明も見てください!