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中部教典 第36経「マハーサッチャカ経」
「身体の修行と心の修行」
《ニガンタの子サッチャカがブッダを批判します。》
ブッダが托鉢に行こうとしたとき、散歩途中のニガンタの子サッチャカがやってきます。
ニガンタの子サッチャカは無駄話が好きで自身は賢者と思っていて、評判のいいブッダのことを良く思っていませんでした。
サッチャカはブッダに話しかけます。
「身体の修行に専念して、心の修行を専念しない修行者がいます。かれらは身体に苦痛を感じながら身体の修行をしています、それはなぜかというと、心の修行をしていないからです。」
また逆に、
「心の修行に専念して、身体の修行に専念しない修行者がいます。かれらは心に苦痛を感じながら心の修行をしています。それはなぜかというと身体の修行をしていないからです。」
とブッダに言います。
逆にブッダはサッチャカに尋ねます。
「身体の修行とはどのようなものですか?」
サッチャカ
「布施も受け取らず、食べることを制限して、少食の修行に励んでいます。」
次にブッダは
「心の修行とはどのようなものですか?」と尋ねます。
サッチャカは答えることができませんでした。
《ブッダの説法が始まります》
ブッダの教えを聞かない人には、日常の生活で喜びや楽しみの「安楽」の感受が生まれます。その安楽の感受の欲情に染まる者となり、安楽の感受に染まった人になるのです。
そして、その喜びや楽しみの「安楽」の感受がなくなると「苦」の感受が生まれます。ブッタの教えを聞かない者は「苦」の感受につつまれ、嘆き悲しみ、疲れて、泣き悲しみ、迷いの生活を送ります。
ブッダの教えを聞かない人に生じた喜びや楽しみの「安楽」は、身体を修行していないので心に占領してとどまります。そして心を修行していないから、こころで生じた「苦」も心に占領してとどまるのです。
ブッタの教えを聞く弟子たちには、喜びや楽しみの「安楽」を感受しても、こころにとどまりません。そして、その「安楽」の感受がなくなって「苦」の感受が生まれても、ブッタの教えを聞く弟子たちは「苦」の感受につつまれ、泣き悲しむような、迷いの生活は送りません。
なぜなら、「身体の修行もこころの修行もしている」からです。
とサッチャカに伝えます。
《ブッダは修業時代のエピソードを語ります。》
そして、ブッダが出家して、
アーラーラ・カーラーマ仙人に「無所有処・むしょうしょ」の境地を教わり、
ウッダカ・ラーマプッタ仙人に「非想非非想処・ひそうひひしょうじょ」の境地を教わったが涅槃に到らないので仙人のもとを去っていく話もします。
そして、ブッダは『かって聞いたことがない三つの比喩』がひらめいて答えます。
《3つの生木の比喩》
欲望が捨てられない者は、「水の中の湿った生木に火をつけるようなもの」
欲望が捨てられない者は、「水から遠く離れた陸地で、湿った生木に火をつけるようなもの」
沙門であれ、バラモンであれ、身体によって欲望の対象から離れることができていない者は、激しい苦の感受を受けようが、受けまいが知見で無上等正覚に到達することはできません。
欲望が捨てられている者は、「水から離れた陸地で乾いた枯れ木に火をつけるようなもの」
沙門であれ、バラモンであれ、身体によって欲望の対象から離れることができている者は、激しい苦の感受を受けようが、受けまいが知見で無上等正覚に到達することができます。
と比喩を伝えてから、
次に
《苦行した内容》を話します。
「歯を食いしばり・心を強く押しつけ・きびしく苦しめ脇から汗が噴き出すほどの苦行をしました。呼吸をしなくて、耳から嵐が吹きおこるような頭痛がする禅の修行もしました。豆を少しだけ食べる絶食の修業もして、おなかを触ると背骨を掴んでしまうほどに痩せた修行もました。」
それを見ていた人々はこういいました。
『沙門ゴータマは黒い。いや褐色だ、いや、青白い。』
しかし、どれだけほかの修行者以上の苦行をしても、わたしの心に生じた苦の感受は、こころの中に占領してとどまっていました。
そして、誰よりも厳しい苦行を実践してもさとれない時に、
父王の種まき祭の時に、樹の木陰にすわり、欲望と不善を離れ、
初禅に座っていたのを思い出しました。
「これがじつにさとりにおもむく道ではないだろうか」と思い、
それで苦行を放棄し、(スジャータから)米の粥(かゆ)を供養してもらい、
四禅の瞑想をしました。
《色界の四禅の瞑想の説明をします。》
瞑想の第一段階に達して、喜びと安楽を備えて過ごしました。
さらに、瞑想の第二段階に達して、安定したこころから生じる喜びと安らぎで過ごしました。
さらに瞑想は深まり、瞑想の第三段階に達して、物事に対して偏った心がない中庸(ちゅうよう)になっていて、注意力を備えて安楽(あんらく)で過ごしました。
そして、瞑想の第四段階に入り、中庸さの注意力がもっとも清浄に到達して過ごします。
この第四段階の瞑想にはいると、こころが正しく統一された清浄な境地になるので、
しだいに神通力(じんつうりき)が生じてきます。
《色界の四禅を修得すると神通力が生じる説明をします。》
夜の初更(しょこう)において、
過去の生存を想い起こす智慧の「宿住智」(しゅくじゅうち)の神通力で、前世の自分を思い起こして過ごしました。
夜の中更(ちゅうこう)において、
そして、死んでから生まれかわって再生することをしる「死生智」(しせいち=天眼智・てんげんち)の神通力で、からだ・ことば・こころの悪い行いは、死んでから地獄に再生することを見ます。また、からだ・ことば・こころの善い行いをする者は、死んでから天の世界に再生することを見ました。
《四諦を知り、漏尽智で成道したエピソードを話します。》
夜の最後の更で、
「これは苦しみである・これは苦しみの生起である・これは苦しみの滅である・これは苦しみの滅する道であると四諦(したい)を如実(にょじつ)にしりました。」
そこから、こころから煩悩が漏れて出てくるのを消滅させる智慧の「漏尽智」(ろじんち)の境地で過ごしました。
無明が滅びて明知が生じ、光明が生じました。
わたしには、日常の生活で生じた喜びや楽しみの「安楽」はこころに占領してとどまらないのです。
「生老病死」をもたらす煩悩が捨てられていない者は、迷妄で過ごすことになりますが、「生老病死」をもたらす煩悩が捨てられている者は、迷妄が無く将来に再生しません。
《ニガンタの子サッチャカが歓喜します。》
この話をきいた、ニガンタの子サッチャカはブッダの教えに満足して、大いに喜びました。
このお経には成道したときの夜を3つに分けたエピソードもでてくるね!
修行内容も、四禅(しぜん)の瞑想から神通力を得て煩悩が尽きる漏尽智(ろじんち)の教えがでてくるね!
また図解の説明も見てください!
(参考:「図解」19.四禅の瞑想の説明)