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中部教典 第7経 布喩経(ふゆきょう)衣のたとえ
心の汚れを布の汚れに喩えるお経「衣のたとえ」
ブッダは比丘達に語ります。
「汚れた垢まみれの布を青、黄色、赤に染めようとしても、汚れた垢にまみれたままに悪く染めあがるでしょう。それは、布が汚れているからです。それと同じように、こころが汚れている時は、悪い行き先にいくことになるのです。」
「清らかな布を青、黄色、赤に染めようとしたら、奇麗に青、黄色、赤に染めあがるでしょう。それは、布が清らかだからです。それと同じように、こころが清らかなときは、よい行き先にいくことになるのです。」
《こころの汚れを語ります。》
「こころの汚れとは、貪るこころ、怒りのこころ、恨みのこころ、覆い隠すこころ、悩ますこころ、嫉妬のこころ、物惜しみのこころ、たぶらかすこころ、へつらいのこころ、強情なこころ、対抗意識のこころ、慢心のこころ、おごりのこころの汚れであります。」
「これらの、こころの汚れを捨て去るのです。」
《心の汚れを捨て、仏・法・僧の三宝を浄信する。》
「これらの、こころの汚れを捨て去ることができると、如来であるブッダに対して絶対の浄信をそなえることができるのです。また如来の教えである、ブッダの教えに対して絶対の浄信をそなえることができるのです。また仏教僧団に対しても、絶対の浄信をそなえることができるのです。」
《浄信から喜びと安らぎが生まれる。》
「そして、こころの汚れをできるかぎり捨て去っていくと、ブッダ・ブッダの教え・仏教僧団に対して絶対の浄信をそなえもっている、という正義を知る喜びを得て、喜びが生じて、身体は安静になり、安静なった身体は楽を感受してこころは定められます。」
《浄信の戒で浄化される》
「このように仏法僧を浄信して生活していると、何を食べても障害にならないのです。」
「それはたとえば、汚れた垢まみれの布でも、澄んだ水によって清らかに浄化されるようなものです。」
《慈悲喜捨のこころで過ごす》
「慈しみとともに行くこころを、上下横すべての方位を、すべての所を
一切の世界を、広大な、大いなる、はかりしれない、怨みなく、悪意のない、慈しみのこころをもって、すべてを照らして過ごすのです。
憐れみ、悲しみとともに行くこころを、上下横すべての方位を、すべての所を
一切の世界を、広大な、大いなる、はかりしれない、怨みなく、悪意のない、憐れみ、悲しみのこころをもって、すべてを照らして過ごすのです。
喜びとともに行くこころを、上下横すべての方位を、すべての所を
一切の世界を、広大な、大いなる、はかりしれない、怨みなく、悪意のない、喜びのこころをもって、すべてを照らして過ごすのです。
平等で偏りのないこころを、上下横すべての方位を、すべての所を
一切の世界を、広大な、大いなる、はかりしれない、怨みなく、悪意のない、平等で偏りのないこころをもって、すべてを照らして過ごすのです。」
《漏煩悩から解放される》
「慈悲喜捨のこころをもって過ごす人には、『これが劣り、これが優れている』などの思いから離れた境地で過ごし、漏煩悩から解放されるのです。
そして彼は、煩悩から解放されたと知り、『生まれは滅び、梵行は完成し、なすべきことはなされ、今後この場に再生させることはない』と知るのです。
こころに煩悩が現れ起こっても、こころの内部を洗うことによって、こころが洗われるのです。」
ブッダが、その説法をしているとき、
近くに座っていたスンダリカ・バーラドヴァージャ・バラモンがブッダに質問します。
ブッダは偈で答えます
浄まったものには常に春があり、
浄まったものには常に布薩(自己を戒める反省)がある。
浄まったものには常に、自己を守る戒律の行動ができる。」
《ブッダの締めの説法》
スンダリカよ、嘘をつかない、生き物を殺さない、人のものを盗まない、信じつつ物惜しみしない者であるなら、
スンダリカよ、バーフカー河に行って水を飲む以外、なにをしに行くのか。
《スンダリカがブッダに帰依する》
スンダリカはブッダに言います。
「すばらしいことです、倒れたものを起こすように、隠されている善い行為を顕すように、道に迷ったものに道を示すように、暗闇にともし火を掲げるように、ゴーダマ・ブッダはさまざまな仕方で、法を示されました。わたくしは尊者ブッダと修行者の集まりに帰依します。わたくしたちをブッダの信者として受け入れて下さい。」

ブッダはスンダリカの受戒を認められました。
スンダリカは熱心に教えと戒律を守り、梵行を完成され、なすべきことがなされ、今後輪廻でこの場所に戻ることはないと知って阿羅漢となりました。
それにしても、 顔は六師外道さんたちに似ているね! (笑)