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「梵網経」(ぼんもうきょう)ブッダの教え解説 原始仏典 長部 第1経

長部第1経「梵網経」
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原始仏典 長部経典 第1経 梵網経(ぼんもうきょう)

「梵網経」(ぼんもうきょう)原始仏典 経蔵 長部 第一経で、ブッダが「我」があると間違った見解をする沙門達の思想をことごとく否定して、我は無い「無我」の真理を縁起で説くお経です。ブッダの教え、六師外道の思想などの解説をつけて紹介します。とても長く複雑なので目次や図解で区切って読んでみて下さい!

「聖なる網の教え」

アーナンダ
アーナンダ
わたくしアーナンダはこう聞きました!

ブッタが5百人の弟子と歩いていたら、遊行者のスッピヤがブッタの悪口を話し、その弟子のブラフマダッタはブッタを称賛する話をしながら、後ろからついてきていました。

 ブッタの弟子たちが二人の遊行者のことを話し合っていた所に、ブッダがやってきてこのように説法しました。

  「ブッタのこと、ブッタの教え、僧団のことを悪く言われて、怒ったり、不機嫌になってはいけない。なぜなら、怒っている状態では他の人の話をしている事が正しいのか、正しくないのかの判断ができないからである。怒りの気持ちを排除しなさい。また、良く言われても、喜んだり、得意になってないけない。得意な気持ちも真実をみる障害になるからである。真実を正しく知らなければならない。」

凡夫がブッダを称賛する小中大の三段階の戒 

さらにブッタは弟子達に、一般の人や他の遊行者である凡夫が、悟りを開いた如来であるブッタのことを称賛して話す内容を小中大の三段階の戒に分けて語りました。

  〈小さな戒(初梵行戒、活命第八)〉

  ブッタは生き物を殺さない。人の物を盗みはしない。女性とみだらな行為などしない。(身体の行いを清浄にする3つの戒)

嘘など言わない。人のことを悪く言わない。乱暴な言葉で相手を罵らない。つまらない冗談など話さない。(言葉を清浄にする四つの戒)

食事も一日に一度で済ませ、夜食などしない。娯楽の鑑賞から離れている。身につける飾り物から離れている。豪華な寝具も使用しない。金銀も受け取らない。生の肉も食べない。女性や少女、奴隷、山羊や羊、鳥、豚、象、牛、馬なども受け取らない。田畑も受け取らない。使い走りの仕事もしない。売買などもしない。金の重さをごまかしたりしない。賄賂など邪悪な行為から離れている。(もろもろまとめて正常な生活の戒)

 〈中戒(清浄な生活)〉

  草木や種子など損なうことから離れている。食べ物や衣類や寝具など持ち物の貯蔵から離れている。踊りに歌謡、闘いなど見世物から離れている。碁遊びやさいころの賭け事など、放逸の原因からも離れている。椅子や毛皮の絨毯、豪華な寝具などからも離れている。入浴のアロマや香水などのエステや、装飾品など身を飾ることから離れている。王の話、盗賊の話、世間話など無益な会話から離れている。論争からも離れている。使い走りからも離れている。詐欺と虚言からも離れている。

〈大きな戒(避けるべき邪悪な生活手段)〉

 占いに護摩、呪文を唱えて行う運勢判断、悪霊払い、鳥や獣の泣き声による運勢判断など無益な呪術から離れている。女性の相、男性の相など無益な占いから離れている。戦争の勝ち負けの判定など無益な予想もしない。太陽や月や星など天体の動きの占いなどからも離れている。今年は豊作になるや不作になる、飢饉がくるなどといった無益な予測からも離れている。結婚によい吉日など日取りに関わることや、幸運になる呪文や不幸に陥れる呪文、鏡に神託を問う祈祷、太陽や大梵天に奉仕する祭司などからも離れている。願掛け、土地浄化、さらには身体を治療することなどからも離れている。

 世間ではこのようなよこしまな生活を営んでいる人がいてるが、ブッタはこのような無益な呪術から離れている。と語り、さらに締めくくりの言葉に、「凡夫はブッタを賞賛して語るとき、全く重要ではない身近にあふれている高尚ではないことだけを語るであろう。」で小中大の三つの戒の話が終わりました。

バラモンや沙門の主張する〈六十二の見解〉

  次にブッタは、「深遠でがたく、了知しがたいが寂静で勝れており、思考と思惟を超えていて、微妙で賢者だけが理解できる、諸法であるブッタの悟りを賞賛することとは、どんなことであるのか?」を

《あるバラモンや沙門が主張する六十二の見解を解説して、それらの見解とは違うブッダの悟りの教示を説法していきます。》

 

〈六十二の見解〉

過去の限界ついて考察して、過去の限界について見解をもつ過去に関する説・・・常住論(4)、一部常住論(4)、有限無限論(4)、詭弁論(4)、無因生論(2)の18説

未来の限界について考察して、未来の限界について見解をもつ未来に関する説・・・死後の有我説の三種類、有想論(16)、無想論(8)、非有想非無想論(8)と断滅論(7)、現法涅槃論(5)の44節

過去と未来の説合わせた62説の固執した見解で、それぞれがどのように主張されているのかを解説してから、それぞれの見解の最後にブッタが悟った教示を説き締めくくります。

《過去に関する18節》

あるバラモンや他の沙門が説く、〈過去に関する18節〉の見解の最初は、

「常住論」の四つの説

が説かれます。

 第一の根拠はあるバラモンや沙門が、心を統一する瞑想の修行で、「過去何世代にもにさかのぼる生涯」での生存を追想する瞑想を体得した時、「過去私はこういう家系で生まれ名前はこうで、こういう体験をして、寿命がつきて死んで、またこの世に生まれた」と前世からの生まれ変わりで、今の私がいてるのを追想して、我と世界は常住であると主張する。生ける者は輪廻して死後また再生するが永遠に存在すると常住論を説く。

  第二の根拠はあるバラモンや沙門が、心を統一する瞑想の修行で、「世界が何回も消滅していく期間や何回も生成していく期間」での生存を追想する瞑想を体得した時、「過去私はこういう家系で生まれ名前はこうで、こういう体験をして、寿命がつきて死んで、またこの世に生まれた」と前世からの生まれ変わりで、今の私がいてるのを追想して、我と世界は常住であると主張する。生ける者は輪廻して死後また再生するが永遠に存在すると常住論を説く

 第三の根拠はあるバラモンや沙門が、心を統一する瞑想の修行で、「世界が十回も二十回も三十回も四十回も消滅していく期間や十回も二十回も三十回も四十回も生成していく期間」での生存を追想する瞑想を体得した時、「過去私はこういう家系で生まれ名前はこうで、こういう体験をして、寿命がつきて死んで、またこの世に生まれた」と前世からの生まれ変わりで、今の私がいてるのを追想して、我と世界は常住であると主張する。生ける者は輪廻して死後また再生するが永遠に存在すると常住論を説く。

 第四の根拠はあるバラモンや沙門は「理論家で推論者であって、自らの理論に冒され、推論に追随して」生ける者は輪廻して死後またまた再生するが永遠に存在すると常住論を主張する。

 このような執着された常住論の見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、ブッタの覚りの教示が説法されます。

  「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」

 これが、「深遠で見がたく、了知しがたいが、寂静で勝れており、思考と思惟を超えていて、微妙で賢者だけが理解できる諸法である。」とブッタの覚った十二縁起の、すべて感受から煩悩が湧きおこるので、その執着から離れることが寂静の境地であることを説いたのです。

  そして、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」と締めくくり。残りの見解もブッタが次々に解説していきます。

 ブッタは次に

「一部常住一部無常論」の四つの説

について説いていきます。

 第一の根拠は、長大な時間が過ぎて世界が消滅する時、生ける者たちの多くは光音天(色界の二禅の境地)という光の世界に生まれる。体内から生まれ出てくるのではなく、意(心の意識)によって化生(胎内や卵から産まれてくるのではなく、忽然と生じてくるもの)で生じたものであり、喜悦を食べ物として、自ら輝き、空中を飛行して美しく飾って長い間過ごしている。やがて世界が生成する時期が来て、誰も住んでいない梵天の宮殿が出現する。ある生ける者は光音天からの死没後、誰も住んでいない梵天の宮殿に再生して、ただ一人で長い時間過ごしていたので、誰かやってきたらいいのにと思っていたら、別の者が梵天の宮殿に再生してきた。最初からいた梵天は、自分が望んで別の梵天を出現させたので、自分の事を大梵天だと思う。また後から化生して生まれてきた者も、最初からいている梵天を見て大梵天だと思う。それから後、梵天から死没して人としてこの世界に人として生まれて来る。その彼が出家して心を統一する瞑想の修業で、過去の生存を追想して、さらに過去の自分は大梵天であることを追想して、この大梵天によって今のわたくしたちは化生された事を追想したと主張する。大梵天は常に変わることなく存続するから常住と思うが、大梵天によって化作された私たちは死んだのち、また今みたいに生まれてくる者と追想して、一部は変わることないが、一部は変わるものだと主張する。その根拠に固執して一部常住一部無常論を説く。

 第二の根拠は天人のキッダーパドーシカ天人(遊びによって汚れる者、瞑想の境地の空居天の他化自在天)は長い間、笑いと遊びと喜びをもたらすものに耽っている。遊びに耽りすぎていたため、記憶を完全に無くしてしまって天の世界から死没して、長い間の後にこの世界に人として生まれてくる。そしてこの世界に生れてきた彼は、沙門となり出家して、心を統一する瞑想の修行で、過去何世代にもさかのぼる生涯での生存を追想する瞑想を体得し、それ以上の過去を追想できないところまで体得する。すると彼は遊びに耽るキッダーパドーシカ天人と違って、貴い天人は遊びに耽らないから死没しないで常にかわることなく存続すると追想する。しかし遊びにふけるキッダーパドーシカ天人の生まれ変わりである私たちは死没してこの世に生まれ変わって存在している者と追想して、一部は変わることないが、一部は変わるものだと主張する。その根拠に固執して、一部常住一部無常論を説く。

 第三の根拠はマノーパドージカ天人(心によって汚れる者、瞑想の境地の地居天の)は非常に長い間お互い同士で嫉妬し合って心が憤り、心が煩い疲弊している。疲弊しすぎていたため、記憶を完全に無くしてしまって天の世界から死没して、長い間の後にこの世界に人として生まれてくる。そしてこの世界に生れてきた彼は、沙門となり出家して、心を統一する瞑想の修行で、過去何世代にもさかのぼる生涯での生存を追想する瞑想を体得し、それ以上の過去を追想できないところまで体得する。すると彼は嫉妬をして疲弊するマノーパドーシカ天人と違って、貴い天人は嫉妬しないから死没しないで常にかわることなく存続すると追想する。しかし嫉妬で疲弊するマノーパドーシカ天人の生まれ変わりである私たちは、死没してこの世に生まれ変わって存在している者と追想して、一部は変わることないが、一部は変わるものだと主張する。その根拠に固執して、一部常住一部無常論を説く。

第四の根拠は、あるバラモンや沙門は理論家で推論者であって、自らの理論に冒され、推論に追随してこのように説く。「私の眼、耳、鼻、身体の我は無常であり変化していくものである。しかし心や意識の意は常に同じで変化しないもので存続する。」と主張する。その根拠に固執して、一部常住一部無常論を説く。

 このような執着された常住論の見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、同じブッタの覚りの教示を説法します。

  「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」

 これが、「深遠で見がたく、了知しがたいが、寂静で勝れており、思考と思惟を超えていて、微妙で賢者だけが理解できる諸法である。」そして、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」

で締めくくります。

 次に

「有限無限論」(世界は有限である、あるいは無限である、あるいは有限であり無限でもある、あるいは有限ではなく、また無限でもない。)の四つの説

について説いていきます。

 第一の根拠は、あるバラモンや沙門は心を統一する瞑想の修行で「この世界は有限であり、周囲がある。」と世界の有限を考える心の統一を体得したから、世界は有限であると主張して、有限無限論を説く。

 第二の根拠は、あるバラモンや沙門は心を統一する瞑想の修行で「この世界は無限であり、周囲がない。」と世界の無限を考える心の統一を体得したから、世界は無限であると主張して、有限無限論を説く。

 第三の根拠は、あるバラモンや沙門は心を統一する瞑想の修行で「この世界は上下の方向は有限であり、左右の方向は無限である。」と、世界は有限であり、また無限でもあると考える心の統一を体得したから、世界は有限無限であると主張して、有限無限論を説く。

 第四の根拠は、あるバラモンや沙門は理論家で推論者であって、自らの理論に冒され、推論に追随してこのように説く。「この世界は有限でもなく、無限でもない。」と主張して、有限無限論を説く。

  このような執着された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、同じブッタの覚りの教示を説法します。

「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」さらに、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」と同じ言葉で締めくくります。

次に、

「詭弁論」(道理にあわない論説)の四つの説

を説いていきます。

 第一の根拠はあるバラモンや沙門は、善と不善を如実にしらないのに、尋ねられた質問にたいして善か不善を答えてしまう。答えたそのあと、他の賢者に尋ねて、善についてわたしは正しい回答をしていたと知ると、満悦の弱い欲望と、強い欲望を持ってしまう。また、賢者から、あなたは間違えて答えていたと知ると、私はこんな事すらしらないのかと、自責の念の弱い怒りと、強い怒りを持つ。さらに、それは偽って答えたことになる。偽って答えたことが障害になり、わたしの苦悩になる。だから、質問を尋ねられるごとに善悪を答えず「わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。

 第二の根拠は、あるバラモンや沙門は、善と不善を如実にしらないのに、尋ねられた質問にたいして善か不善を答えてしまう。答えたそのあと、他の賢者に尋ねて、善についてわたしは正しい回答をされていたと知ると、満悦の弱い欲望と、強い欲望を持ってしまう。また、賢者から、あなたは間違えて答えていたと知ると、私はこんな事すらしらないのかと、自責の念の弱い怒りと、強い怒りを持つ、さらに、それは執着になる。執着したことが障害になり苦悩になる。だから、質問を尋ねられるごとに善悪を答えず「わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。

  第三の根拠は、あるバラモンや沙門は、善と不善を如実にしらないのに、尋ねられた質問にたいして善か不善を答えてしまう。他の聡明で論争に長け、他人の見解を論破している賢者が、わたしに善か不善かを尋ねて、わたしの過った答えを指摘するであろう、それはわたしの障害になり苦悩になる。だから、質問を尋ねられるごとに善か不善を答えず「わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。

  第四の根拠は、あるバラモンや沙門は愚鈍で知性に欠けているので詭弁になり質問を受けるたびに錯乱した詭弁に陥る。来世はあるか?またないのか?と質問されても「あると思えばあると回答し、また無いと思えば無いと回答して、さらに、わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。光の世界に化生して生ける者はいるか?またはいないのか?、善悪の業の結果はあるのか?またはないのか?、悟りひらいたブッタは死後、存在するのか?または存在しないのか?と質問されても「あると思えばあると回答し、また無いと思えば無いと回答して、さらに、わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。

  このような執着された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、同じブッタの覚りの教示を説法します。

「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」さらに、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」と同じ言葉で締めくくります。

 

次に

「無因論」(わたしと世界とが因もなしに生起することをいう論)の二つの説

について説いていきます。

第一の根拠は、心理作用(想)をもたない無想の天人(瞑想の境地の無想有情)がいる。その無想の天人は心理作用(想)が生じると死没する。そして、長い間ののちにこの世界に人として生まれてくる。そしてこの世界に生れてきた彼は、沙門となり出家して、心を統一する瞑想の修行で、過去何世代にもさかのぼる生涯での生存を追想する瞑想を体得し、それ以上の過去を追想できないところまで体得する。すると彼は「わたしの我(心の中にいる神アートマン)と世界とは原因なしに生じる。なぜならわたしは以前に存在しなかったが、現在わたしは生ける者として現れている。」と心理作用をもたない無想天人からの生まれ変わりである私たちは死没してこの世に生まれ変わって存在している者と、追想して主張する。その根拠に固執して、無因論を説く。

 第二の根拠は、あるバラモンや沙門は理論家で推論者であって、自らの理論に冒され、推論に追随してこのように説く。「わたしの我(心の中にいる神アートマン)と世界とは原因なしに生じる。」と主張して、有限無限論を説く。

  過去の限界について考察し、見解をもつバラモンや沙門は、これら十八の見解のどれかによってさまざまな説を主張する。

  このような執着された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、同じブッタの覚りの教示を説法します。

「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」さらに、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」と同じ言葉で締めくくり

過去に関する十八説

がおわります。

 

次に、あるバラモンや他の沙門が説く未来の限界ついて考察して、未来の限界について見解をもつ、

未来に関する44説》

が説かれます。

「想」の2種類の意味

(1)表象作用の想(色・受・行・想・識の想)対象を認識する過程で生じる心理作用。対象のすがた(相)を心の中に取り入れ、心の中に表しだす作用。
(2)心理作用全般、非想非想処などの想

 「死後有我有想論」(人の死後(瞑想の境地で意識がなくなっている状態)、我(心の中にいる神アートマン)が存在し、その我は心理作用(想)を有すという論)の十六の説

を説いていきます。

*理解しやすくするために番号を振って箇条書きにします。

 あるバラモンや沙門は、

1「物質的要素からなり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

2「精神的要素からなり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

3「物質的要素からなり、かつ精神的要素からなり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

4「物質的要素からもならず、かつ精神的要素からもならず、かつ精神的要素からもならず、心理作用を有す常住の我が、死後に存在する」

5「有限であり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

6「無限であり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

7「有限であり、かつ無限であり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

8「有限でもなく、かつ無限でもなく、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

9「ひとつの心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」 

10「種だねの心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

11「限定された心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

12「無量の心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する」

13「もっぱら楽を有す、健康な常住の我が、死後に存在する」

14「もっぱら苦を有す、健康な常住の我が、死後に存在する」

15「苦と楽を有す、常住の我が、死後に存在する」

16「苦も楽ももたない、常住の我が、死後に存在する」

とあるバラモンや沙門達はこれら16の主張により、人の死後、我(心の中にいる神アートマン)が存在し、その我は心理作用(想)を有すという、死後有我有想論を説く。

 しかし、このような執着された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、ブッタの覚りの教示が説法されます。「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」

*ここから第三章に入りまして、未来に関する説の続きが説かれていきます。

「死後有我無想論」(人の死後、我が存在し、その我は心理作用をもたないという論)の八の説

を説いていきます。

1「物質的要素からなり、心理作用をもたない、常住の我が、死後に存在する」

2「精神的要素からなり、心理作用をもたない、常住の我が、死後に存在する」

3「物質的要素からなり、かつ精神的要素からなり、心理作用をもたない、常住の我が、死後に存在する」

4「物質的要素からもならず、かつ精神的要素からもならず、心理作用をもたない、常住の我が、死後に存在する」

5「有限であり、心理作用をもたない、常住の我が、死後に存在する」

6「無限であり、心理作用をもたない、常住の我が、死後に存在する」

7「有限であり、かつ無限であり、心理作用をもたない、常住の我が、死後に存在する」

8「有限でもなく、かつ無限でもなく、心理作用をもたない、常住の我が、死後に存在する」と、あるバラモンや沙門達はこれら8の主張により、人の死後、我が存在し、その我は心理作用をもたないという、死後有我無想論を説く。

 そして、このような執着された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、ブッタは自らの教示を説法します。「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」さらに、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」と同じ言葉で締めくくります。

 そして、次に

「死後有我非有想非無想論」(死後、我が存在し、その我は心理作用を持つものでも持たないもたないものでもない)という八つの説

を説いていきます。

1「物質的要素からなり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住の我が、死後に存在する」

2「精神的要素からなり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住の我が、死後に存在する」

3「物質的要素からなり、かつ精神的要素からなり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住の我が、死後に存在する」

4「物質的要素からもならず、かつ精神的要素からもならず、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住の我が、死後に存在する」

5「有限であり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住の我が、死後に存在する」

6「無限であり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住の我が、死後に存在する」

7「有限であり、かつ無限であり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住の我が、死後に存在する」

8「有限でもなく、かつ無限でもなく、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住の我が、死後に存在する」と、あるバラモンや沙門達はこれら8の主張により、死後、我が存在し、その我は心理作用を持つものでも持たないもたないものでもないと、死後有我非有想非無想論を説く。

 そして、このような執着された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、ブッタは自らの教示を説法します。「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」さらに、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」と同じ言葉で締めくくります。

  そして、次に

「断滅論」(死後、我は消滅する)という七つの説

を説いていきます。

無色界の四段階の瞑想

①4つ目の説に、空間の無限を観ずる境地(空無辺処)

②5つ目の説に、意識の無限を観ずる境地(識無辺処)

③6つ目の説に、なにものもそんざいしないと観ずる境地(無所有処)

④7つ目の説に、心理作用(想)があるのでもなく心理作用がないのでもないという境地(非想非非想処)

 あるバラモンや沙門たちは、生ける者が断滅し、消滅し、滅亡すると7つの説を主張する。

1「わたしの我(心の中にいる神アートマン)は物質的要素からなり、地水火風の四つの要素からなり、母と父から生まれ、身体が壊れたあと断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」 

2「我は存在する。完全に消滅する我はこれだけではない。天の世界の存在であり、物質的要素からなり、欲望の支配する領域に属し、食べ物によって養われる我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、見ている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」  

3「先ほどの我だけではなく。天の世界の存在で、物質的要素からなり、意によって成り立っており、すべての肢体を備えており、すぐれた感覚をもっている我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、いている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」

4「物質についての想念を完全に超えて、物質の特性である相互不可入性を消滅して、それぞれ異なっているという想念を心に想わず、空間は無限であるという、空間の無限を観ずる境地(空無辺処)に到達した他の我がある。)それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、見ている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」

5「空間の無限を観ずる境地を完全に超えて、意識は無限であるという、意識の無限を観ずる境地(識無辺処)に到達した他の我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、見ている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」

6「意識の無限を観ずる境地を完全に超えて、なにものも存在しないという、なにものもそんざいしないと観ずる境地(無所有処)に到達した他の我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、見ている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」  

7「なにものも存在しないという、なにものもそんざいしないと観ずる境地(無所有処)を完全に超えて、これは静寂であり、これはすぐれていると、心理作用(想)があるのでもなく心理作用がないのでもないという境地(非想非非想処)に到達した他の我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、見ている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」 と、あるバラモンや沙門達はこれら7の主張により、断滅論を説く。

  そして、このような執着された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、ブッタは自らの教示を説法します。 「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」さらに、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」と同じ言葉で締めくくります。           

  そして、次に

「現法涅槃論(現世において五欲の楽を満足し耽るとき、初禅ないし四禅に達して住するとき、最上の現法涅槃に達するという論)」の五つの説

を説いていきます。

「色界の四禅」の瞑想

①1つ目の説に、五禅支(尋・伺・喜悦・楽・一境性)

②二つ目の説に、初禅

③三つ目の説に、二禅

④四つ目の説に、三禅

⑤五つ目の説に、四禅

とても大事な瞑想「四禅」です。

  あるバラモンや沙門たちは、現世での涅槃を説く5つの説を主張する。

1「この我は、五つの感覚的欲望を満たし、充足し、楽しむ。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。

2それ以上の最上の涅槃が他にあると他の者はいう。「欲望は無常であり、苦であり、変易するものであり、変易して他のものに変わっていくから、悲しみと嘆きと苦しみと憂いと悩みが生じる。その我はそれら欲望を離れ、不善のものを離れ、大まかな考察(尋)をともない、細かな考察(伺)をともなっているが、五蓋(ごがい)からの離脱によって生じた、喜びと安楽をそなえた第一の瞑想(初禅)にはいり、そのなかにいる。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。

3それ以上の最上の涅槃が他にあると他の者はいう。「大まかな考察と細かな考察は細かい点にまで注意がゆきとどかないおおざっぱな心境なので、第一の瞑想の初禅の大まかな考察と細かな考察を辞めることにより、心の内が平穏となり、心が一点に集中して、大まかな考察と細かな考察の離れた心の統一(定)から生じる、喜びと安楽を備えた第二の瞑想(二禅)にはいり、そのなかにいる。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。

4それ以上の最上の涅槃が他にあると他の者はいう。「喜びと安楽を備えた心には、ざわついて心を乱す動きをするので、喜びを離脱することによって、中庸(捨)となっており、注意力(念)となっており、注意力(念)と明瞭な意識(正知)とを持ち、身体により安楽を感受した第三の瞑想(三禅)にはいり、そのなかにいる。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。

5それ以上の最上の涅槃が他にあると他の者はいう。「安楽を備えた心も、細かい点にまで注意がゆきとどかないおおざっぱな心境なので、第三の瞑想の安楽をも辞めることにより安楽を断ち、先ほどの初禅、二禅、三禅ですでに喜悦と苦悩とが消滅しているので、苦も無く楽もなく、中庸さより生じた注意力がもっとも清浄になっている第四の瞑想(四禅)にはいり、そのなかにいる。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。と、あるバラモンや沙門達はこれら5の主張により、現法涅槃論を説く。

  そして、このような執着された見解は、このような趣く先をもたらし、このような未来をもたらすであろうとブッタはこれを知り、またこれよりも勝れたことを知る。と、ブッタは自らの教示を説法します。 「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」さらに、「このブッタの自ら悟り体現している教示を賞賛することが、ブッタをあるがままに賞賛して正しく語ることである。」と同じ言葉で締めくくり未来に関する四十四説も終わり。過去と未来全部で六十二の見解がおわります。

六十二の見解の本性は感受されたものである」と総括

  六十二の見解をするバラモンや沙門は、真実を知らず、真実を見ていないために感受されたものであり、渇愛に陥っているために理性を失い語っていると語り。

 六十二の見解の本性は感受されたものであり、渇愛に陥っているためにおののき狂躁(きょうそう)したものにすぎない。

 さらに、これら六十二の見解の生じるもとは「接触を縁として生じるものである」と総括します。

  これら六十二の見解は「接触をしないで感受することはない。」と付け加えて解説して、

  最後に六十二種の見解を超越する道を説法します。

これらの六十二の見解はすべて、六つの感覚器官に接触して感受するのである。そして感受を縁として渇愛が生まれて、渇愛がさらに固執になり、固執を縁として生存が生じ、生存を縁として生まれることが生じ、老いることと死ぬこと、悲しみ嘆きと苦しみと憂いと悩みが生じる。

この六つの触処の原因と消滅と楽しみと過患と離脱とを如実に知れば、六十二の見解よりすぐれていることを知る。

過去、未来、いかなる考えも、六十二の見解の網の中に入っており、この中に捕らわれて魚のごとく飛び跳ねている。あたかも熟練した猟師やその弟子が、目の細かな網で小さな池を取り囲んで、この池に住むどのような大きな生き物でも、この網の中に捕らわれて、跳ね回り、この中に入って跳ね回る。とブッタがたとえ話を取り入れて説明して、

 さらに、ブッタの身体は生存へ導くものを切断している。マンゴーの実をつけた枝が切られたとき、枝についているマンゴーも一緒に切られるよう、ブッタの身体は生存へ導くものを切断されている。

このように説かれたとき、

アーナンダーが世尊よ、珍しいことで、いまだかって説かれなかったことです。この教えをなんと名付けましょうか?と尋ねて、「意義の網」「教えの網」「聖なる網」「見解の網」「無上の戦勝」と名付けなさい。とブッタが説かれたあと、

ブッタの弟子の比丘達は喜んだ。千の世界が振動した。

えん坊
えん坊
ぼーさん、これがブッダの教えの経蔵の長部経典の一番最初くるお経なんだね!間違った見解がとっても長くて、肝心の説法は縁起だけでとっても短いね!
ぼーさん
ぼーさん
えん坊、そうだね!仏教僧団はまず最初に他宗派などの邪見や戒禁取(かいごんしゅ)、誤った戒律や苦行、こだわり、しきたりへの執着を取り除くために、この梵網経を一番最初に持って来たんだよ!ブッダの体現した真理は五蘊の縁起から成りたつ 諸法無我だから、自我のアートマンを徹底的に否定してるお経だよ!

そして、四つの真理の「四諦」を体現できる阿羅漢になるための修行方法が、第2経の「沙門果経」に引き継いでいくんだね!「四諦」のひとつ集諦(じったい)がこのお経にでてくる十二縁起だね!

とても内容が難しいこの梵網経で、原始仏典を読むのを挫折した人が多いと聞いたので、箇条書きにしたり、解説をいれて図解みたいになってしまいました。(汗)

本物の原始仏典も是非、読んでみてくださいね!カスタマレビューも参考ください!(笑)

次の第2経「沙門果経」はこちら

現代語で翻訳されている主な「原始仏教・パーリ仏典」

①春秋社「原始仏典」

この春秋社の「原始仏典」は、イギリスのパーリ聖典協会のPTS版(パーリ・テキスト・ソサエティ)を底本(翻訳のもとにした本)にして、中村元先生はじめ森祖道先生、前田専学先生、浪花宣明先生、その他たくさんの仏教専門のエキスパートの先生方が翻訳に携われています。

  春秋社の「原始仏典」の中村元先生の序文の解説では、
ブッダ自身の布教していた時代とそれに続くお弟子さんたちの時代、およそ紀元前3世紀ころまでを「原始仏教」時代といいます。一つの仏教教団が上座部と大衆部に分裂して、さらに細かく分裂して部派仏教が発生しました。部派仏教のひとつ上座部の部派がインドよりスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムと南伝仏教が伝えていき、現在この上座仏教の伝えるパーリー語の原典が、現存する者の中で内容が一番完備している。と説明されてます。

春秋社「原始仏典」序文の解説より

②大蔵出版「パーリ仏典」片山一良先生著

片山先生は、大蔵出版からビルマ第6結集(1954年)の教典を底本にした「パーリ仏典」長部全6巻・中部全6巻・相応部全10巻を翻訳して出版されています。

③大宝輪閣「パーリ仏典入門」片山一良先生著

また、大宝輪閣から「パーリ仏典入門」を出版されています。入門と題されていますが、
パーリ仏典「三蔵」の全体を解説されています。膨大な経典数の把握がとても理解しやすいので大変おすすめです。

 大法輪閣の「パーリ仏典入門」の片山一良先生のパーリ仏典の解説では、
「上座部仏教」(テーラワーダー)の聖典で、長老(テーラ)たちによって実践され、説かれ、伝持された仏教、「伝統の仏教」と説明されています。

大法輪閣「パーリ仏典入門」著者:片山一良より

④Kindle版 「小部経典・ブッダの福音」 全10巻 正田大観先生 翻訳

正田大観先生はビルマ第六結集の経典を改訂した『国際版パーリ三蔵』を底本として「小部経典」を翻訳されてamazonにて出版されています。


画像はamazonより参照

えん坊
えん坊
原始仏典って、ブッダの初期の教えが書かれているんだね!とっても大事だね!
それに、ブッダ当時の6人の外道とかいろんな修行者のユニークなエピソードもでてきて楽しいね~!
ぼーさん
ぼーさん
上座部仏教で伝承されたパーリ仏典が「原始仏典」だね!ブッダが実践していた修行方法も継承されているね!

原始仏典には、ほんと色んな神様や悪魔とかもでてきて楽しいね!
現代の日本語で読めるのが本当にありがたいよね!

パーリ仏典一覧はこちらです↓