このページは大念処経(だいねんじょきょう)を読みまとめた、ぼーさんの見解を解説しています。図解やほぐし読みと照らし合わせて、参考程度でみて下さい。
図解①はこちらです↓
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大念処経の結論は
ブッダの宣言と締めの言葉から、
大念処経の結論は
「八正道の修得で涅槃の境地になる」
そのひとつの修行が、八正道の正念(しょうねん)
「四念処」の「身受心法」の不浄を
『観察する瞑想』です。
とブッダは言っているね。
これは、四念処(観察の瞑想)だけで涅槃の境地になるのではなく、
八正道のひとつが四念処で、涅槃につながる観察の瞑想と理解したんだよ!
R2.1/21追記
慈悲喜捨で怒りや貪りを取り除く瞑想を実践して思ったのですが、
涅槃は煩悩を吹き消した状態なので、四念処で自分の中の怒りや貪りの煩悩に気づいて取り除いて、涅槃の境地の実現の瞑想になるのかもしれません。(涅槃の境地には深い浅いなどあるとおもいますが、基本的には自分の心に怒りと貪りがない状態だと思っています。)
そして、さらに八正道の修得をして、煩悩のない中道の境地や、滅尽智(めつじんち)・想受滅(そうじゅめつ)の境地、俱分解脱(ぐぶんげだつ)などで再生はなくなる阿羅漢の境地になるのかとも思いました。
大念処経の最初の観察に「出入息の観察」がでてくるので、
呼吸に集中したら、「無」になれて、雑念が消えていく、
精神統一の瞑想(サマタ瞑想)の印象が強く残るけど、
大念処経の全体を見ていくと、
「無」になる精神統一のサマタ瞑想ではなく、
自分の煩悩を取り除く観察の瞑想だと理解したんだよ!
ひとつひとつ説明していくね!
ぼーさんがこのお経の四念処で思ったポイントは3つあって、
四念処のポイント①は、煩悩を取り除く瞑想
ブッダの最初のこの言葉、
身体・感受・心・法(いろいろな事象)について、
この世における貪欲や憂いを除去していくのです。
この言葉の通り、
自分自身を観察して、
そして、
自分にある
『悪い感情(煩悩)を、取り除くだけ』
の瞑想と理解したのがポイント①で、
このポイント①の理由は、
後にでてくる四諦の
「苦しみの消滅というすぐれた真理」
で説明している、
これと、同じだから
自分の身体から発生した煩悩の愛執を離して捨て去る瞑想の実践
苦の消滅の瞑想だと理解したんだよ!
このことからも四念処は「無」になる精神統一の瞑想ではないのがわかるね!
そして、次にポイント②は、
四念処のポイント②は、三法印を念じる!
四念処の観察で、煩悩が取り除けたら、
「涅槃の境地があり、苦の真理が理解できる」
ことをしっかりと念じることがポイントの②で、
三法印の『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』を念じること!
ポイント②の理由は、
もろもろの事象(法)の説明に、
「苦集滅道」、苦の解決「四諦」(したい)が出てきている
からだね!
この四諦の部分は後生付け加えられたとも解説されていることを考えても、
四念処の実践で、四諦の理解をしていかなければならないことになるね!
それと合わせて、ブッダが何度も何度も言っている
次がポイント③で、
四念処のポイント③は、生起する法、衰滅する法
ただの事象のみが存在する。
と、
執着を手放す教えを、毎回その都度、説法している。
これがポイント③になるよね!
この生起の法は、四諦のひとつ、
「苦の原因」の集諦(じったい)の意味と理解ができたんだよ!
そして衰滅の法は、さっき話した、「苦の消滅のすぐれた真理の滅諦」だね!
どの角度からみても四諦の理解が不可欠になるよね。
そして、
ここでも「無」になる瞑想ではない注意点があるんだよ!
「ただの事象のみが存在する」の注意点
「ただの事象のみ」=「無」=「涅槃」のイメージが強くなるけど、
なんども出てくる生起の法と衰滅の法の理解は、自分の身体の六根(目耳鼻舌身意)で触れると愛執が生起して、愛執が生起していない場合は六根でかってに衰滅するし、愛執が生起していても「観察して手放したり、取り除くと衰滅する」、この二つの意味合いが衰滅の法と解釈しています。
それを、ぼーさんは理解したので、
四念処の観察の瞑想は「無の境地」が目的ではなく、
苦の真理の理解するために、「煩悩を手放す」のが目的、
自分にある悪い感情(煩悩)を取り除くだけの瞑想と、
解釈した理由です!
ブッダの言う、
「ただの事象のみが存在する」は執着していない状態ですね!
自己の意識で取り除いているので、
似ているけど、「無の状態」ではないのですね!
このことから、瞑想の実践を理解するにあたり、
ポイントをおさらいして気づいたことが、
ポイント①の観察で煩悩を取り除いて、
ポイント②の三法印を念じて、
ポイント③煩悩の生起(集諦)と衰滅の法(滅諦)の理解して、
煩悩が完全に取り除けたら涅槃の境地だけど、
四念処(観察の瞑想)で完全に取り除くのではなく、
次のサマタ瞑想(精神統一の瞑想)に入る準備段階と判断したんだ。
それはなぜかというと、沙門果経には
注意力と明瞭な意識(四念処)の次に四禅の瞑想に入る教えがでてきていて、
四念処の観察の瞑想で、
怒り・貪りなど五蓋(ごがい)が取り除けたら、
純粋な物質の瞑想の世界、色界(しきかい)に行き、
サマタ瞑想の四禅(しぜん)に入ることが、大念処経と合致したんだ。
だから、
大念処経の結論は、四念処だけではなくて、四禅も取り入れる、
「八正道の修得で涅槃の境地になる」
に合点したんだね!
さらにさっきの、「無」=「涅槃」ではないことは、「聖求経」でブッダが伝えていて、
「無」=「涅槃」ではないことがわかるお経「聖求教」
ブッダは出家してウッダカ仙人のもとで、「無色界」の「悲想非非想処」を簡単に到達して、その境地は「ただ悲想非非想処の境地に到達で苦の解決にならない」と仙人のもとを去っているからね!
そして苦行をし、苦行を放棄して、『瞑想で成道』していることからもわかるように、瞑想で「無の境地」になるだけでは、「苦の解決」の成道に到らないのがわかるからね!
今の時点では、ぼーさんは瞑想する際に、
瞑想の完成・達成の設定が必要じゃないかなと思いがでてきているんだ!
それを一度整理するね!
瞑想には完成・達成の設定が必要なのかもしれない!
・ブッダは「生きるはかなさの苦しみの解決」を求めて出家した。
・無色界の瞑想「非想非非想処」ではダメだった。
そして四禅の瞑想で成道したエピソードを説明している。(中部26経 聖求経)
・幼い時、樹の下に座り、欲望・不善を離れて「初禅」で座っていたのが「さとりにおもむく道ではないか」と回想して四禅の瞑想をして成道している。(中部36経 マハーサッチャカ経)
ブッダは成道しようと決意して、瞑想をして、成道した。
と理解しているんだ!
確信的なのが、長部16経「大般涅槃経」の入滅のエピソードで、
初禅→2禅→3禅→4禅→空無辺処→識無辺処→無所有処→非想非非想処→滅想受→非想非非想処→無所有処→識無辺処→空無辺処→ 4禅→ 3禅→ 2禅→初禅→ 2禅→3禅→4禅→完きニルヴァーナに入った。
ここでも、ブッダは入滅を決意して、自在に瞑想の境地を行き来しているのがわかるよね。
この大念処経の最初ブッダの宣言でも、
「ニッバーナ実現のため」
と、目的を明確に宣言しているよね!
このことから、
瞑想するときには、どの境地にいくのか決意を先に持ってくる
必要があるのでは?
と思いが芽生えていてね。
このことは、すでに瞑想の境地の三界が体系化されているので、
ほかのお経と合わせてまたじっくり理解していきたいと思っているよ。
ぼーさんの現時点での感想
でも、ぼーさんは
「涅槃や覚りの境地になるには、出家して戒律守るのが大前提」
と思っているから、
(沙門果経にもでているし、ブッダも出家して成道してるし)、
涅槃や覚りの境地を、頭で巡らせるのは後回しにして、
ブッダの根本思想や説話集にでてくる僧侶さんとかを紹介していきたいと、
「大念処経」を図解にしていて、改めて思ったよ!
「治意経」「念身経」「大有明経」「小有明経」「大ラーフラ経誡経」などほかの瞑想の教義に関するお経も参考にして解説をまとめると、
ややこしくてややこしくて自分もこんがらがるから、、、
ほぐし読みで少し解説してるけど、焦らずじっくり瞑想の理解を深めていくね!
ぼーさんの現時点では、瞑想の実践は慈悲喜捨が土台で、
すぐに湧き出てくる、こころの怒りや貪りを浄化して、
時折り、気持ちの整理のために精神統一の瞑想をして充実していくのを
実感しているのが感想かな!
それなら今日は何の日だか知ってるよね!
そんなこんなで、今年もあとわずか、
えん坊、今日はクリスマスだね!
かわいいクリスマスバージョンのマンガありがとう!
素敵なクリスマスを!


メリークリスマス!素敵なクリスマスを!
生きとし生けるものが幸せでありますように!


えん坊&ぼーさん クリスマスケーキ作ってもらいました♪