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四諦(したい)の観察 法の観察 瞑想方法 大念処経⑦ほぐし読み 最終話 ブッダの教え

大念処経⑦
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四諦の観察「身受心」(しんじゅしんほう)

長部経典 第22経「大念処経」(だいねんじゅきょう)のほぐし読みの第7話のもろもろの事象の「法の観察」の「四諦の観察」で最終話になります。大念処経は、すべてが瞑想の教えになります。頭の中で身受心法を実修しているイメージで読み進めることをおすすめします。長いお経ですので、段落で分けて紹介します。ピンク色の文字は図解で解説がありますので、図解↓と連動して読んでみて下さい。

アーナンダ
アーナンダ
世尊は身体の観察、感受の観察、心の観察の説法をして、法の観察の五蓋・五蘊・六処・七覚支を説法しました。次に、わたくしアーナンダはこう聞きました!こちらが最終話になります。

『大念処経ほぐし読み①』はこちらです

《四つのすぐれた真理について、四諦を観察する》

またさらに修行僧たちよ、修行僧は四つのすぐれた真理、四諦について観察するのです。

修行僧は

「これは苦しみである」とありのままに知り、

「これは苦しみの原因である」とありのままに知り、

「これは苦しみの消滅である」とありのままに知り、

「これは苦しみの消滅にいたる道である」とありのままに知るのです。

『中部10経はここまで』

『中部141経のここからは、世尊の代わりにサーリプッタが説いています。』

サーリプッタ
サーリプッタ
四諦は「苦の真理」で、とても大事なのじゃ!ニヤリ!

《苦しみのすぐれた真理とはなにか?》

それでは、修行僧たちよ、苦しみのすぐれた真理とは、いったいなにか。

生まれることは苦しみであり、
老いることは苦しみであり、
病気になることは苦しみであり、
死ぬことは苦しみであり、
憂い・悲しみ・苦痛・苦悶・悶えは苦しみでる。
求めても得られないということも苦しみです。

要するに、個人存在を構成する、五つの執着の要素「五蘊」は苦しみです。

さて、修行僧たちよ、

生まれることとは、いったいなにか。

それぞれの生き物が、それぞれの生き物の群れに、生まれること、発生し、入胎し、再生し、

個人存在を構成する、五つの執着の要素「五蘊」が出現し、認識領域を獲得すること、これが、生まれることといわれる。

さて、修行僧たちよ、

老いることとは、いったいなにか。

それぞれの生き物が、それぞれの生き物の群れの中で、老いること、老衰し歯が抜け、白髪になること、皮膚にしわがよること、寿命が短縮し、感覚器官が老化すること、これが、老いることといわれる。

さて、修行僧たちよ、

死ぬこととは、いったいなにか。

それぞれの生き物が、それぞれの生き物の群れから、没し、死没し、壊れ、消失し、死亡し、死滅し、命終し、個人存在を構成する、五つの執着の要素「五蘊」が破壊し、身体を放棄すること、これが死ぬことといわれる。

さて、修行僧たちよ、

憂いとは、いったいなにか。

なんであれ、なんらかの不幸に見舞われ、なにか苦しいことを経験している人の、憂い、愁い、愁いの状態、内なる憂い、内に広がった憂い、これが憂いといわれる。

さて、修行僧たちよ、

悲しみとは、いったいなにか。

なんであれ、なんらかの不幸に見舞われ、なにか苦しいことを経験している人の、非泣し、ひどく悲泣し、悲しんで泣き、ひどく悲しんで泣き、非泣させられ、ひどく悲泣させられること、これが悲しみといわれる。

さて、修行僧たちよ、

苦痛とは、いったいなにか。

身体の苦痛、身体の不快、身体に接触することから生じる苦痛、不快の感受、これが苦痛といわれる。

さて、修行僧たちよ、

心の苦悩とはいったいなにか。

心の苦痛、心の不快、心の接触から生じる苦痛、不快を感じること、これが苦悩といわれる。

さて、修行僧たちよ、

心の悶えとはいったいなにか。

なんであれ、なんらかの不幸に見舞われ、なにか苦しいことを経験している人の、悶え、つよい悶え、悶えの状態、つよい悶えの状態、これが悶えといわれる。

《求めても得られないという苦しみについて》

また、修行僧たちよ、

求めても得られないという苦しみとは、いったいなにか。

修行僧たちよ、

生まれるという性質をもつ生き物にとって、このような欲求がおこる。

「ああ、わたしたちに、生まれるという性質がなければよいのに。わたしたちに、生まれるということがやって来なければよいのに」と。しかしこのことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られない苦しみです。

老いるという性質をもつ生き物にとって、このような欲求がおこる。

「ああ、わたしたちに、老いるという性質がなければよいのに。わたしたちに、老いるということがやって来なければよいのに」と。しかしこのことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られない苦しみです。

病気になるという性質をもつ生き物にとって、このような欲求がおこる。

「ああ、わたしたちに、病気になるという性質がなければよいのに。わたしたちに、病気になるということがやって来なければよいのに」と。しかしこのことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られない苦しみです。

死ぬという性質をもつ生き物にとって、このような欲求がおこる。

「ああ、わたしたちに、死ぬという性質がなければよいのに。わたしたちに、死ぬということがやって来なければよいのに」と。しかしこのことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られない苦しみです。

憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えという性質をもつ生き物にとって、このような欲求がおこる。

「ああ、わたしたちに、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えという性質がなければよいのに。わたしたちに、憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えということがやって来なければよいのに」と。しかしこのことは望んでも起こりえない。これもまた、求めても得られない苦しみです。

また修行僧たちよ、

要するに、個人存在を構成する五つの執着の要素、五蘊(ごうん)の苦しみとは、

物質的要素(色)の執着の色取蘊

感覚的感受(受)の執着の受取蘊

表層作用(想)の執着の想取蘊

潜在的形成力(行)の執着の行取蘊

識別作用(識)の執着の識取蘊

これら個人存在を構成する五つの要素、五蘊(ごうん)の執着の要素「五取蘊」です。

《苦しみの原因のすぐれた真理とはなにか》

それでは、修行僧たちよ、苦しみの原因のすぐれた真理とはなにか。

それは迷いの生存に戻すものであり、歓喜と愛欲をともない、ここかしこで歓楽するような愛執です。

すなわち、

現世の欲望にたいする愛執、
生存への愛執、
生存の消滅への愛執です。

では、修行僧たちよ、この愛執はどこで生じ、どこで留まっているのだろうか。

なんであれ、この世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものとはなにか。

「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身体」、「こころ」はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身体」、「こころ」による識別はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身体」、「こころ」による接触はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身体」、「こころ」による接触から生じる感覚的感受はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」の表層作用はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」の意識作用はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」への愛執はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」への粗い考察はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」への微細な考察はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、そこで愛執が溜まっているのです。

これが苦しみの原因というすぐれた真理といわれるのです。

《苦しみの消滅というすぐれた真理とはなにか》

それでは、修行僧たちよ、苦しみのすぐれた消滅というすぐれた真理とは、いったいなにか。

それは、この愛執にたいし、残りなく欲を離れ、滅し、棄て、放棄し、解き放たれ、執着のよりどころとしないことです。

では、修行僧たちよ、この愛執はどこで捨てられ、どこで滅びるのだろうか。

なんであれ、この世のなかには、好ましいもの、楽しいものがあり、そこでその愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされるのです。

では、この世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものとはなにか。

「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身体」、「こころ」、はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身体」、「こころ」による識別はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身体」、「こころ」による接触はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身体」、「こころ」による接触から生じる感覚的感受はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」の表層作用はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」の意識作用はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」への愛執はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」への粗い考察はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

「色かたち」、「音声」、「香り」、「味わい」、「接知できるもの」、「こころの対象」への微細な考察はこの世のなかにおける、好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされているのです。

これが苦しみの原因というすぐれた真理といわれるのです。

《苦しみの消滅にいたる道とすぐれた真理とはなにか》

それでは、修行僧たちよ、苦しみのすぐれた消滅というすぐれた真理とは、いったいなにか。

それは、八種よりなるすぐれた道の八正道です。

すなわち、正しい見解(正見)、正しい思考(正思惟)、正しいことば(正語)、正しい行動(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい念い(正念)、正しい精神統一(正定)です。

では、修行僧たちよ、正しい見解(正見)とは、いったいなにか。

修行僧たちよ、苦しみについて知ること、苦しみの原因を知ること、苦しみの消滅を知ること、苦しみの消滅にいたる道を知ること、これが正しい見解です。

では、修行僧たちよ、正しい思考(正思惟)とは、いったいなにか。

出離への思考、怒りのない思考、傷害のない思考、これが正しい思考です。

では、修行僧たちよ、正しいことば(正語)とは、いったいなにか。

偽りのことばから離れること、中傷のことばから離れること、粗暴なことばから離れること、無意味な飾ったことばから離れること、これが正しいことばです。

では、修行僧たちよ、正しい行動(正業)とは、いったいなにか。

生きものを殺すことから離れること。与えられないものを取ることから離れること、淫らな行いから離れること、これが正しい行動です。

では、修行僧たちよ、正しい生活(正命)とは、いったいなにか。

立派な信徒が間違った生活を捨てること、正しい生活をして生きていくこと、これが正しい行動です。

では、修行僧たちよ、正しい努力(正精進)とは、いったいなにか。

いまだ生じていない悪いこと、善くないことがらが、これから起きないようにするために意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。

すでに生じてしまった悪いこと、善くないことがらを、断つために意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。

いまだ生じていない善いことがらが、これから生じるようにするために意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。

すでに生じている善いことがらを、存続し、忘れてしまわずに、増大し、拡大し、修行が完成されるように、意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。

これが、正しい努力です。

では、修行僧たちよ、正しい念い(正念)とは、いったいなにか。

修行者は

身体について身体を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきです。

感受に関して、感受を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきです。

こころについて、こころを観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきです。

もろもろの事象(法)について、もろもろの事象(法)を観察しつつ、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去すべきです。

では、修行僧たちよ、正しい精神統一(正定)とは、いったいなにか。

修行者はさまざまな欲望を離れ、善くないことがらから離れ、粗い考察と微細な考察とをともない、遠ざかり離れることから生ずる喜びと楽しみの瞑想の第一段階(初禅)に達しているのです。

粗い考察と微細な考察とを静めることから内心が清浄になり、心を統一して、粗い考察と微細な考察とをともなわない精神統一から生じる喜びと楽しみの第二段階(二禅)に達しているのです。

喜びを離れて、心の平静があり、よく気をつけて、正しく自覚し、身体によって楽しみを感受しながら、それを聖者たちが、「こころの平静があり、よく気をつけていて、楽しみに留まっている」と説く、第三段階(三禅)に達している。

楽しみを捨て、苦しみを捨て、以前に経験した快さと憂いとを滅しているために苦しみもなく、楽しみもない、心の平静と気をつけることによって浄められている瞑想の第四段階(四禅)に達しているのです。

これが、正しい精神統一です。

これが、苦しみの消滅にいたる道という優れた真理です。

このように、内に、自分自身のもろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、また、客観的に自分のもろもろの事象についてもろもろの事象を観察し、あるいは内と外、自分自身のもろもろの事象についてもろもろの事象を観察していくのです。

また、もろもろの事象の中で生起してくる現象を観察し、また、もろもろの事象の中で消滅する現象を観察し、また、もろもろの事象の中で生起し消滅していく現象を観察していくのです。そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、「ただ事象のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。

そうすると、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのです。修行僧たちよ、修行僧はこのようにしてもろもろの事象について、すなわち四つのすぐれた真理について事象を観察するのです。

《四種の心の専注の結果》

修行僧たちよ、この四種の心の専注を、このように七年間修める人はだれでも、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのです。

すなわち、現世における、最高の智慧(阿羅漢の智慧)か、あるいは生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのないもの(不還)が期待されるのです。

七年でなくとも、六年でも、五年でも、四年でも、三年でも、二年でも、一年でも、

あるいは、七ヵ月月でも、六ヵ月でも、五ヵ月でも、四ヵ月でも、三ヵ月でも、二ヵ月でも、一ヵ月でも、

あるいは、半月でも、七日でも、

この世に還ってくることのないもの(不還)が期待されるのです。

「修行者たちよ、生きものたちを清浄にするために、さまざまな愁いと悲しみをのりこえるために、苦痛と憂いを消滅させるために、正しい道を修得するために、ニッバーナの実現のため、このただ一つの道があるのです。つまり、それは『四種の心の専注、(四念処)です。』と最初に述べたのは、このことに関して説いたのです。」

修行僧たちは、尊師の説かれたことを聞いてたいへん喜んだ。

「大念処経」 完

大念処経 図解①はこちら

大念処経「図解①」

大念処経 図解②はこちら

大念処経「図解②」

えん坊
えん坊
ぼーさん!仏教修行に関して最も重要なお経と言われる大念処経の最後もやっぱり四諦の教えがでているね!
ぼーさん
ぼーさん
えん坊!ほんとだね!
この四諦の部分は中部141経より長部経典22経がくわしく説法されてでてきているね!

大念処経のすごいところは、ブッダの最初の宣言が、きちんと締めくくりにも持ってきて説明が完結しているところだね!

宣言と締めのことばを整理すると、

大念処経の四念処の身受心法は、

苦痛と憂いの消滅(上記、苦しみのすぐれた消滅の真理を参考)
八正道の修得で涅槃(ニッバーナ)の実現(上記、苦しみの消滅にいたる道という優れた真理を参考)させる、

観察の瞑想の教えだね!

四念処の瞑想の結果は、

煩悩をきれいに手放すことができると「苦の真理の四諦」が理解できて阿羅漢の智慧が得られるんだね!言い換えると再生をしなくなる究極の境地だね!

煩悩が少し残っていると、「苦の真理の四諦」が理解できない「無明」が残り、生存の根元が残っていて、(色界から涅槃に到達する)この世に還ってくることのないもの(不還)と表現しているんだね。

これはややこしいけど、修行者の四段階の四向四果(しこうしか)で判断するとわかりやすいね!
色界から涅槃に至る人が不還果だね!
《参考》修行者の四段階、四向四果(しこうしか)

ブッダの教えの最終目的地の「滅尽定」・「想受滅」も、苦の真理「四諦」の理解洞察になるからね!とても長いけど、図解も合わせて読んでいくと、さらに詳しく理解が深まりますよ!