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「梵網経」(ぼんもうきょう)間違った62の見解 ブッダの教え

梵網経(ぼんもうきょう)間違った62の見解「図解」
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えん坊
えん坊
ねぇ、ぼーさん!仏教でいう間違った考え方って具体的にどんな考え方なの?

ぼーさん
ぼーさん
えん坊、経蔵(けいぞう)の一番最初「梵網経・ぼんもうきょう」に間違った62の見解がでてくるよ!めちゃ複雑だけど、がんばって見てみよう!
ちなみに、大乗仏教の「梵網経・(梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十)」とは内容が違いますからね!

梵網経(ぼんもうきょう)62の間違った見解「図解」
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梵網経(ぼんもうきょう)がお経の一番に来た理由

ブッダ滅後にひとりの比丘が「これで口うるさいことを言われなくて済む」と暴言を吐いているのを聞いたカッサパ長老が、「戒律が保たれたら、ブッダの教えも保たれる」ということが目的で原始仏典は「戒律」の「律蔵」からまとめられて編成されました。

次に、ブッダの教えである「経蔵」を編成するのですが、経蔵でも戒の教えを示す「戒蘊篇」(かいうんへん)から作られます。そして邪見(じゃけん)からの解放に導くために、ブッダの教えとは違う、間違った考え方の62種類が示されているお経「梵網経」が最初に作られました。

「梵網経」のさいごに、ブッダがアーナンダにこのお経を「間違った見解をしている者を、網にかかった魚」にたとえて、「意義の網」「教えの網」「聖なる網」「見解の網」「無上の戦勝」と記憶しなさいと言っています。

「戒律の教え」と「間違った見解の是正する教え」両方の視点からみても、ブッダの教え、仏教僧団を理解するのに欠かせないお経が経蔵の一番目に作られたこの「梵網経」なのです。

ぼーさん
ぼーさん
原始仏典を読もうと思ってこのお経で挫折した人の感想をよくききました。初めての人には、ほんとに難しくて、わたくしぼーさん自身も最初に読んだときにまとめたのを後で読み直したら、本来とは違う解釈をして理解していました。繰り返しよんでやっと理解できました。下に間違った62の見解を拾い出しておきます。この62の見解を理解しておけばあとは教えを理解するだけなので読みやすくなりますよ。

「梵網経」間違った62の見解の過去と未来

バラモンや他宗派の沙門が主張する〈間違った六十二の見解〉とは、

過去ついて見解をもつ過去に関する説

・常住論(4説)
・一部常住論(4説)
・有限無限論(4説)
・詭弁論(4説)
・無因生論(2説)の計18説

未来ついて見解をもつ未来に関する説

死後の
・有我説の三種類、
1・有想論(16説)
2・無想論(8説)
3・非有想非無想論(8説)

・断滅論(7説)
・現法涅槃論(5説)の計44説

過去と未来の説合わせた62説の固執した見解です。

「梵網経」間違った62の見解

過去ついて見解をもつ過去に関する説

「常住論」の四つの説

第一の根拠はあるバラモンや沙門が、心を統一する瞑想の修行で、「過去何世代にもにさかのぼる生涯」での生存を追想する瞑想を体得した時、「過去私はこういう家系で生まれ名前はこうで、こういう体験をして、寿命がつきて死んで、またこの世に生まれた」と前世からの生まれ変わりで、今の私がいているのを追想して、我と世界は常住であると主張する。生ける者は輪廻して死後また再生するが永遠に存在すると常住論を説く。

第二の根拠はあるバラモンや沙門が、心を統一する瞑想の修行で、「世界が何回も消滅していく期間や何回も生成していく期間」での生存を追想する瞑想を体得した時、「過去私はこういう家系で生まれ名前はこうで、こういう体験をして、寿命がつきて死んで、またこの世に生まれた」と前世からの生まれ変わりで、今の私がいているのを追想して、我と世界は常住であると主張する。生ける者は輪廻して死後また再生するが永遠に存在すると常住論を説く

第三の根拠はあるバラモンや沙門が、心を統一する瞑想の修行で、「世界が十回も二十回も三十回も四十回も消滅していく期間や十回も二十回も三十回も四十回も生成していく期間」での生存を追想する瞑想を体得した時、「過去私はこういう家系で生まれ名前はこうで、こういう体験をして、寿命がつきて死んで、またこの世に生まれた」と前世からの生まれ変わりで、今の私がいているのを追想して、我と世界は常住であると主張する。生ける者は輪廻して死後また再生するが永遠に存在すると常住論を説く。

第四の根拠はあるバラモンや沙門は「理論家で推論者であって、自らの理論に冒され、推論に追随して」生ける者は輪廻して死後また再生するが永遠に存在すると常住論を主張する。

ぼーさん
ぼーさん
自分の「我・アートマン」(名色)と世界は常住であるというの論です。

「一部常住一部無常論」の四つの説

第一の根拠は、長大な時間が過ぎて世界が消滅する時、生ける者たちの多くは光音天(色界の二禅の境地)という光の世界に生まれる。体内から生まれ出てくるのではなく、意(心の意識)によって化生(胎内や卵から産まれてくるのではなく、忽然と生じてくるもの)で生じたものであり、喜悦を食べ物として、自ら輝き、空中を飛行して美しく飾って長い間過ごしている。やがて世界が生成する時期が来て、誰も住んでいない梵天の宮殿が出現する。ある生ける者は光音天からの死没後、誰も住んでいない梵天の宮殿に再生して、ただ一人で長い時間過ごしていたので、誰かやってきたらいいのにと思っていたら、別の者が梵天の宮殿に再生してきた。最初からいた梵天は、自分が望んで別の梵天を出現させたので、自分の、事を大梵天だと思う。また後から化生して生まれてきた者も、最初からいている梵天を見て大梵天だと思う。それから後、梵天から死没して人としてこの世界に人として生まれて来る。その彼が出家して心を統一する瞑想の修業で、過去の生存を追想して、さらに過去の自分は大梵天であることを追想して、この大梵天によって今のわたくしたちは化生された事を追想したと主張する。大梵天は常に変わることなく存続するから常住と思うが、大梵天によって化生された私たちは死んだのち、また今みたいに生まれてくる者と追想して、一部は変わることないが、一部は変わるものだと主張する。その根拠に固執して一部常住一部無常論を説く。(大梵天は常住で、他の者は生まれ変わってしまうので無常住

第二の根拠は天人のキッダーパドーシカ天人(遊びによって汚れる者、瞑想の境地の空居天の他化自在天)は長い間、笑いと遊びと喜びをもたらすものに耽っている。遊びに耽りすぎていたため、記憶を完全に無くしてしまって天の世界から死没して、長い間の後にこの世界に人として生まれてくる。そしてこの世界に生れてきた彼は、沙門となり出家して、心を統一する瞑想の修行で、過去何世代にもさかのぼる生涯での生存を追想する瞑想を体得し、それ以上の過去を追想できないところまで体得する。すると彼は遊びに耽るキッダーパドーシカ天人と違って、貴い天人は遊びに耽らないから死没しないで常にかわることなく存続すると追想する。しかし遊びにふけるキッダーパドーシカ天人の生まれ変わりである私たちは死没してこの世に生まれ変わって存在している者と追想して、一部は変わることないが、一部は変わるものだと主張する。その根拠に固執して、一部常住一部無常論を説く。(キッダーパドーシカ天人は死没して無常住、貴い天人は死没しないで常住

第三の根拠はマノーパドージカ天人(心によって汚れる者、瞑想の境地の地居天の天人)は非常に長い間お互い同士で嫉妬し合って心が憤り、心が煩い疲弊している。疲弊しすぎていたため、記憶を完全に無くしてしまって天の世界から死没して、長い間の後にこの世界に人として生まれてくる。そしてこの世界に生れてきた彼は、沙門となり出家して、心を統一する瞑想の修行で、過去何世代にもさかのぼる生涯での生存を追想する瞑想を体得し、それ以上の過去を追想できないところまで体得する。すると彼は嫉妬をして疲弊するマノーパドーシカ天人と違って、貴い天人は嫉妬しないから死没しないで常にかわることなく存続すると追想する。しかし嫉妬で疲弊するマノーパドーシカ天人の生まれ変わりである私たちは、死没してこの世に生まれ変わって存在している者と追想して、一部は変わることないが、一部は変わるものだと主張する。その根拠に固執して、一部常住一部無常論を説く。(マノーパドーシカ天人は死没して無常住、貴い天人は死没しないで常住

第四の根拠は、あるバラモンや沙門は理論家で推論者であって、自らの理論に冒され、推論に追随してこのように説く。「私の眼、耳、鼻、身体の我は無常であり変化していくものである。しかし心や意識の意は常に同じで変化しないもので存続する。」と主張する。その根拠に固執して、一部常住一部無常論を説く。(眼、耳、鼻、身体の我は無常、心や意識の意は常住

ぼーさん
ぼーさん
自分の「我・アートマン」(名色)と世界は一部が常住で、一部は非常住であるという論です。

「有限無限論」の四つの説

(世界は有限である、あるいは無限である、あるいは有限であり無限でもある、あるいは有限ではなく、また無限でもない。)

第一の根拠は、あるバラモンや沙門は心を統一する瞑想の修行で「この世界は有限であり、周囲がある。」と世界の有限を考える心の統一を体得したから、世界は有限であると主張して、有限無限論を説く。

第二の根拠は、あるバラモンや沙門は心を統一する瞑想の修行で「この世界は無限であり、周囲がない。」と世界の無限を考える心の統一を体得したから、世界は無限であると主張して、有限無限論を説く。

第三の根拠は、あるバラモンや沙門は心を統一する瞑想の修行で「この世界は上下の方向は有限であり、左右の方向は無限である。」と、世界は有限であり、また無限でもあると考える心の統一を体得したから、世界は有限無限であると主張して、有限無限論を説く。

第四の根拠は、あるバラモンや沙門は理論家で推論者であって、自らの理論に冒され、推論に追随してこのように説く。「この世界は有限でもなく、無限でもない。」と主張して、有限無限論を説く。

ぼーさん
ぼーさん
世界は「有限である・無限である」という論です。

「詭弁論・きべんろん(道理にあわない論説)」の四つの説

第一の根拠はあるバラモンや沙門は、善と不善を如実にしらないのに、尋ねられた質問にたいして善か不善を答えてしまう。答えたそのあと、他の賢者に尋ねて、善についてわたしは正しい回答をしていたと知ると、満悦の弱い欲望と、強い欲望を持ってしまう。また、賢者から、あなたは間違えて答えていたと知らされると、私はこんな事すらしらないのかと、自責の念の弱い怒りと、強い怒りを持つ。さらに、それは偽って答えたことになる。偽って答えたことが障害になり、わたしの苦悩になる。だから、質問を尋ねられるごとに善悪を答えず「わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。(間違った答えを嫌ってあいまいに回答する

第二の根拠は、あるバラモンや沙門は、善と不善を如実にしらないのに、尋ねられた質問にたいして善か不善を答えてしまう。答えたそのあと、他の賢者に尋ねて、善についてわたしは正しい回答をしていたと知ると、満悦の弱い欲望と、強い欲望を持ってしまう。また、賢者から、あなたは間違えて答えていたと知ると、私はこんな事すらしらないのかと、自責の念の弱い怒りと、強い怒りを持つ、さらに、それは執着になる。執着したことが障害になり苦悩になる。だから、質問を尋ねられるごとに善悪を答えず「わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。(執着を嫌ってあいまいに回答する

第三の根拠は、あるバラモンや沙門は、善と不善を如実にしらないのに、尋ねられた質問にたいして善か不善を答えてしまう。他の聡明で論争に長け、他人の見解を論破している賢者が、わたしに善か不善かを尋ねて、わたしの過った答えを指摘するであろう、それはわたしの障害になり苦悩になる。だから、質問を尋ねられるごとに善か不善を答えず「わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。(詰問で苦悩になるのを嫌ってあいまいに回答する。

第四の根拠は、あるバラモンや沙門は愚鈍で知性に欠けているので詭弁になり質問を受けるたびに錯乱した詭弁に陥る。来世はあるか?またないのか?と質問されても「あると思えばあると回答し、また無いと思えば無いと回答して、さらに、わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。光の世界に化生して生ける者はいるか?またはいないのか?、善悪の業の結果はあるのか?またはないのか?、悟りひらいたブッタは死後、存在するのか?または存在しないのか?と質問されても「あると思えばあると回答し、また無いと思えば無いと回答して、さらに、わたしはそのように思わない。そのとおりであるとも思わない。異なっているともわたしは思わない。そうでないでないともわたしは思わない。」と錯乱した詭弁に陥る。(愚鈍で知性に欠けているのであいまいに回答する。

ぼーさん
ぼーさん
善・不善をしらないのに、こうであると思わない。そうであるとも思わない。とあいまいにする論です。

「無因論・むいんろん」の二つの説

(わたしと世界とが因もなしに生起することをいう論)

第一の根拠は、心理作用(想)をもたない無想の天人(瞑想の境地の無想有情)がいる。その無想の天人は心理作用(想)が生じると死没する。そして、長い間ののちにこの世界に人として生まれてくる。そしてこの世界に生れてきた彼は、沙門となり出家して、心を統一する瞑想の修行で、過去何世代にもさかのぼる生涯での生存を追想する瞑想を体得し、それ以上の過去を追想できないところまで体得する。すると彼は「わたしの我(心の中にいる神アートマン)と世界とは原因なしに生じる。なぜならわたしは以前に存在しなかったが、現在わたしは生ける者として現れている。」と心理作用をもたない無想天人からの生まれ変わりである私たちは死没してこの世に生まれ変わって存在している者と、追想して主張する。その根拠に固執して、無因論を説く。

第二の根拠は、あるバラモンや沙門は理論家で推論者であって、自らの理論に冒され、推論に追随してこのように説く。「わたしの我(心の中にいる神アートマン)と世界とは原因なしに生じる。」と主張して、有限無限論を説く。

ぼーさん
ぼーさん
我と世界は原因が無いのに生起するという論です。

未来ついて見解をもつ未来に関する説

未来に関する44説が説かれます。

ここで表現される「」には2種類の意味があります。
(1)表象作用の想(色・受・行・・識の想)対象を認識する過程で生じる心理作用。
対象のすがた(相)を心の中に取り入れ、心の中に表しだす作用。
(2)心理作用全般、非想非想処などの

ぼーさん
ぼーさん
まずは、こちら(参考:「図解」13.ブッダの教え「十二縁起」)で「五蘊」と「十二支縁起」をみてからの方が、理解しやすくなりますよ!

「死後有我有想論」の16の説

(人の死後(瞑想の境地で意識がなくなっている状態)、我(心の中にいる神アートマン)が存在し、その我は心理作用(想)を有す(持つ)という論)」の十六の根拠を説いていきます。

我(が・アートマン)は
・物質的要素(色・しき)
・精神的要素(名・みょう)
この名色のふたつです。

・心理作用は(想・そう)のことです。

理解しやすくするために番号を振って箇条書きにします。

1「物質的要素()からなり、心理作用()を有す、常住のが、死後に存在する
身体をもって、想を持つ

2「精神的要素()からなり、心理作用()を有す、常住のが、死後に存在する」(身体を持たないで、想を持つ

3「物質的要素からなり、かつ精神的要素からなり、心理作用を有す、常住のが、死後に存在する」(身体があり、想を持つ

4「物質的要素からもならず、かつ精神的要素からもならず、心理作用を持つ、常住のが、死後に存在する」(身体と精神を持たないで、想を持つ

5「有限であり、心理作用()を有す、常住のが、死後に存在する

6「無限であり、心理作用()を有す、常住のが、死後に存在する

7「有限であり、かつ無限であり、心理作用()を有す、常住のが、死後に存在する

8「有限でもなく、かつ無限でもなく、心理作用()を有す、常住のが、死後に存在する

9「ひとつの心理作用(想)を有す、常住のが、死後に存在する

10「種だねの心理作用(想)を有す、常住のが、死後に存在する

11「限定された心理作用(想)を有す、常住のが、死後に存在する

12「無量の心理作用(想)を有す、常住のが、死後に存在する

13「楽を有す、常住のが、死後に存在する

14「苦を有す、常住のが、死後に存在する

15「苦と楽を有す、常住のが、死後に存在する

16「苦も楽ももたない、常住のが、死後に存在する

とあるバラモンや沙門達はこれら16の主張により、人の死後、我(心の中にいる神アートマン)が存在し、その我は心理作用(想)を有すという、死後有我有想論を説く。

ぼーさん
ぼーさん
我は死後(未来)も「我が有り、想がある」という16の論です。

「死後有我無想論」の8つの説

(人の死後、我が存在し、その我は心理作用(想)をもたないという論)」の八の根拠を説いていきます。

1「物質的要素からなり、心理作用をもたない、常住のが、死後に存在する

2「精神的要素からなり、心理作用をもたない、常住のが、死後に存在する

3「物質的要素からなり、かつ精神的要素からなり、心理作用をもたない、常住のが、死後に存在する

4「物質的要素からもならず、かつ精神的要素からもならず、心理作用をもたない、常住のが、死後に存在する

5「有限であり、心理作用をもたない、常住のが、死後に存在する

6「無限であり、心理作用をもたない、常住のが、死後に存在する

7「有限であり、かつ無限であり、心理作用をもたない、常住のが、死後に存在する

8「有限でもなく、かつ無限でもなく、心理作用をもたない、常住のが、死後に存在する

ぼーさん
ぼーさん
我は死後(未来)も「我が有り、想がない」という8の論です。

「死後有我非有想非無想論」の8つの説

我(が・アートマン)は
・物質的要素(色・しき)
・精神的要素(名・みょう)
この名色のふたつです。

・心理作用は(想・そう)のことです。

(死後、我が存在し、その我は心理作用(想)を持つものでも持たないもたないものでもない)という8つの論」

1「物質的要素(色)からなり、心理作用(想)を持つものでもなくもたないものでもない、常住のが、死後に存在する

2「精神的要素(名)からなり、心理作用(想)を持つものでもなくもたないものでもない、常住のが、死後に存在する

3「物質的要素(色)からなり、かつ精神的要素(名)からなり、心理作用(想)を持つものでもなくもたないものでもない、常住のが、死後に存在する

4「物質的要素(色)からもならず、かつ精神的要素(名)からもならず、心理作用(想)を持つものでもなくもたないものでもない、常住のが、死後に存在する

5「有限であり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住のが、死後に存在する

6「無限であり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住のが、死後に存在する

7「有限であり、かつ無限であり、心理作用を持つものでもなくもたないものでもない、常住のが、死後に存在する

8「有限でもなく、かつ無限でもなく、心理作用(想)を持つものでもなくもたないものでもない、常住のが、死後に存在する

ぼーさん
ぼーさん
我は死後(未来)も存在し、その我は心理作用(想)を持つものでも持たないもたないものでもない、という8つの論

「断滅論(死後、我は消滅する)」の7つの説」

(生ける者が身体が壊れたあと断滅し、消滅すると7つの説)

ここでの解説は瞑想の境地の
1,人間自体
2,欲界
3,色界

「無色界の四段階」
4,空間の無限を観ずる境地(空無辺処)
5,意識の無限を観ずる境地(識無辺処)
6,なにものもそんざいしないと観ずる境地(無所有処)
7,心理作用(想)があるのでもなく心理作用がないのでもないという境地(非想非非想処)
が説かれています。

1「わたしの我(心の中にいる神アートマン)は物質的要素からなり、地水火風の四つの要素からなり、母と父から生まれ、身体が壊れたあと断滅し、消滅し、死後には存在しない。(母と父から生まれる我は断滅して、死後存在しない

2「我は存在する。完全に消滅する我はこれだけではない。天の世界の存在であり、物質的要素からなり、欲望の支配する領域に属し、食べ物によって養われる我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、いている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」
六欲天の食べ物をたべる別の我は断滅して、死後存在しない

3「先ほどの我だけではなく。天の世界の存在で、物質的要素からなり、意によって成り立っており、すべての肢体を備えており、すぐれた感覚をもっている我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、いている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」
六欲天より上の色界の別の我は断滅して、死後存在しない

4「物質についての想念を完全に超えて、物質の特性である相互不可入性を消滅して、それぞれ異なっているという想念を心に想わず、空間は無限であるという、空間の無限を観ずる境地(空無辺処)に到達した他の我がある。)それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、見ている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」
無色界の空無辺処の我は断滅して、死後存在しない

5「空間の無限を観ずる境地を完全に超えて、意識は無限であるという、意識の無限を観ずる境地(識無辺処)に到達した他の我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、見ている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」
無色界の識無辺処の我は断滅して、死後存在しない

6「意識の無限を観ずる境地を完全に超えて、なにものも存在しないという、なにものもそんざいしないと観ずる境地(無所有処)に到達した他の我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、見ている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」
無色界の無所有処の我は断滅して、死後存在しない

7「なにものも存在しないという、なにものもそんざいしないと観ずる境地(無所有処)を完全に超えて、これは静寂であり、これはすぐれていると、心理作用(想)があるのでもなく心理作用がないのでもないという境地(非想非非想処)に到達した他の我がある。それをあなたは知らないし、見ていない。私はそれを知り、いている。その我は身体が壊れた後、断滅し、消滅し、死後には存在しない。このようにしてこの我は完全に消滅する」
無色界の非想非非想処の我は断滅して、死後存在しない

ぼーさん
ぼーさん
瞑想の境地の我は断滅して、死後(未来)存在しないという7つの論です。

「現法涅槃論・げんぼうねはんろん」の5つの説

(現世において五欲の楽を満足し耽るとき、初禅ないし四禅に達して住するとき、最上の現法涅槃に達するという論)の5つの説」

ここでは「四禅」の解説が説かれています。

1、「この我は、五つの感覚的欲望を満たし、充足し、楽しむ。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。(5つの感覚で欲望を満たして満足

2、それ以上の最上の涅槃が他にあると他の者はいう。「欲望は無常であり、苦であり、変易するものであり、変易して他のものに変わっていくから、悲しみと嘆きと苦しみと憂いと悩みが生じる。その我はそれら欲望を離れ、不善のものを離れ、大まかな考察(尋)をともない、細かな考察(伺)をともなっているが、五蓋からの離脱によって生じた、喜びと安楽をそなえた第一の瞑想(初禅)にはいり、そのなかにいる。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。(初禅で満足

3、それ以上の最上の涅槃が他にあると他の者はいう。「大まかな考察と細かな考察は細かい点にまで注意がゆきとどかないおおざっぱな心境なので、第一の瞑想の初禅の大まかな考察と細かな考察を辞めることにより、心の内が平穏となり、心が一点に集中して、大まかな考察と細かな考察の離れた心の統一(定)から生じる、喜びと安楽を備えた第二の瞑想(二禅)にはいり、そのなかにいる。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。(二禅で満足

4、それ以上の最上の涅槃が他にあると他の者はいう。「喜びと安楽を備えた心には、ざわついて心を乱す動きをするので、喜びを離脱することによって、中庸(捨)となっており、注意力(念)となっており、注意力(念)と明瞭な意識(正知)とを持ち、身体により安楽を感受した第三の瞑想(三禅)にはいり、そのなかにいる。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。(三禅で満足

5、それ以上の最上の涅槃が他にあると他の者はいう。「安楽を備えた心も、細かい点にまで注意がゆきとどかないおおざっぱな心境なので、第三の瞑想の安楽をも辞めることにより安楽を断ち、先ほどの初禅、二禅、三禅ですでに喜悦と苦悩とが消滅しているので、苦も無く楽もなく、中庸さより生じた注意力がもっとも清浄になっている第四の瞑想(四禅)
にはいり、そのなかにいる。このようにして、この我は現世において最上の涅槃に達している。」と主張する。(四禅で満足

ぼーさん
ぼーさん
瞑想の境地の「現世において五欲の楽を満足し耽るとき、初禅ないし四禅に達して住するとき、最上の現法涅槃に達するという論」の5つの説の論です。

梵網経の最後にもブッダは「過去、未来、いかなる考えも、六十二の見解の網の中に入っており、この中に捕らわれて魚のごとく飛び跳ねている。」ともいっています。

ブッタの教示は「これらすべて感受されたもの」

以上の62の間違った見解を正すための、62の見解を超越する道の教示が最後に

「短く端的に」かかれています。

 

「それらはすべて六つの感覚器官の接触に触れて、感受するのです。」

 

「感受を縁として、渇愛が生じ、渇愛を縁として固執が生じ、固執を縁として生存が生じ、生存を縁として生まれることが生じ、生まれることを縁として老いることと死ぬこと、それに嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生じている。」

ブッダ
ブッダ
六つの感覚器官の接触の原因と消滅と楽しみと過患(かげん・欲にまつわる過ち)と離脱を如実に知れば、これら六十二の見解より一層すぐれていることを知ります。

「ブッタは固執がないから、心のうちに寂静があり、感受の生起する原因と消滅と過患と出離とを正しく知って、執着を離れている。」

えん坊
えん坊
・・・・。

ぼーさん
ぼーさん
えん坊!!!難しすぎて執着離れて、無我になって、白くなってるよ!!!

しかし、
「我・が」のアートマンを否定したブッダの教えだから、無我は正解だね!(笑)

 

ぼーさん

感受の生起する原因と消滅は、
瞑想の実践が詳細書かれている「大念処経」にたくさん出てきています!
深遠で見がたい、とても大事なブッダの教えになるので、合わせて読んで理解を深めてください!

大念処経①
身受心法・身体の観察・入息出息・瞑想方法 大念処経①ほぐし読み ブッダの教え長部教典 第22経 大念処経(だいねんじょきょう)① 「身受心法」(しんじゅしんほう) 身体の観察 長部経典 第22経「大念処経」(...
長部第1経「梵網経」
「梵網経」(ぼんもうきょう)ブッダの教え解説 原始仏典 長部 第1経 原始仏典 長部経典 第1経 梵網経(ぼんもうきょう) 「梵網経」(ぼんもうきょう)原始仏典 経蔵 長部 第一経で、ブッダが「我」...

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(参考:「図解」ブッダの教えもくじはこちら