「慈悲喜捨」の教えが初めて出てくるお経です。原始仏典 長部 第13経 三明経(さんみょうきょう)
長部教典 第13経 三明経(さんみょうきょう)
「テーヴィッジャ経」
《バラモン青年の議論》
バラモンの青年、ヴァーセッタとバーラドバージャが梵天の世界へ至る正しい道と間違った道について議論が生じました。
ヴァーセッタはバラモンのポッカラサーティ師匠の教えが正しいと言い張ります。
バーラドバージャはタールッカ・バラモン師匠の教えが正しいと言い張ります。
お互い意見が分かれて答えが出なかったので、ブッダに尋ねに行きます。
青年バラモンはブッダに
を尋ねます。
ブッダは青年バラモンたちに質問します。
「いままで梵天との共生を教えているバラモンが一人でも梵天を直接見た人はいますか?過去のバラモンの師匠をさかのぼって梵天を直接見た師匠はいていますか?」
青年バラモンは答えます。
ブッダ「それでは今までのバラモンの師匠の教えは、梵天を見たことが無いのに、共生の道を教えていて筋の通らないことを教えているのではないでしょうか?」
それは、一列で並んでいる目の見えない人が、列の先に並んでいる人も、真ん中に並んでいる人も、後ろに並んでいる人も見えないのと同じではないでしょうか?」
ブッダはさらに質問します。
「では、多くのバラモンの師匠は月と太陽を拝んでいるが、月と太陽の共生に至る道を教えることができますか?」
ブッダたとえ話でいいます。
「それは、まるで、この国で一番の美人に恋い焦がれて、愛しているというようなものではないでしょうか?どこに住んでいて、どんな容姿もしらない人に恋い焦がれるようなものです。筋が通らない教えになるのです。」
「それは、まるで高い建物用のはしごを作っている人が、建物がどこにあるのかわからないのにはしごを作っているようなものです。筋の通らない教えではないでしょうか?」
「たとえば、川を向こうの岸に渡りたい人が、向こうの岸に向かって、こっち来いと言ったら向こう岸は来てくれるでしょうか?」
ブッダはいいます。
「それと同じように、今のバラモンの師匠はバラモンとなるべき特質をすてて、それに反する梵天たち天の神に祈りを捧げているにすぎません。祈りに応じて死んだ後、梵天と共生するという根拠がありません。」
「たとえば、川を向こうの岸に渡りたい人が、丈夫なくさりで両腕をうしろにして縛られたら、川の向こうに渡れるでしょうか?」
《ブッダの教えが始まります。》
ブッダはいいます。
目で見て欲となる「色」に縛られ、
耳で聞いて欲となる「声」に縛られ、
鼻で匂って欲となる「香」に縛られ、
舌で味わって欲となる「味」に縛られ、
身体で触れて欲となる「触」に縛られ、
「今のバラモンの師匠たちは祈りにたいして、執着し、夢中になり、罪を犯し、わざわいと見ないで、智慧もたず、愛欲という縛るものに結びつけられていながら、身体が滅びて死んだ後、梵天を共生する根拠がない。」
「それはたとえば、川を向こうの岸に渡りたい人が、白い布を頭から覆いかぶされていたら、川の向こうに渡れるでしょうか?」
《五蓋(ごがい)の説明です》
愛欲の欲望(貪り)、
悪意の怒り(怒り)、
心の落ち込みと眠けの障害(惛沈・睡眠)、
心のざわつきと後悔の障害(掉挙・悪作)、
疑い深いの疑いの障害(疑い)
で覆われているのです。
そして、
ブッダは青年バラモンに問います
「梵天には妻がいていますか?心に恨みに悪意、汚れがありますか?自制心はありますか?」
ブッダはさらに青年バラモンに問います。
「バラモン達の師匠は、妻がいていますか?心に恨みに悪意、汚れがありますか?自制心はありますか?」
ブッダは質問します、
「梵天とバラモンは性質が違うので親しくなることはあるでしょうか?身体が滅びて死んだ後、梵天を共生する根拠がないのです。」
三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、ヴェーダを信仰しながら、落胆するのです。
それは、砂漠を渡る人が、途中で終わり絶望するようなものなのです。
砂漠のような三ヴェーダといわれ、密林のような三ヴェーダと言われ、災厄のような三ヴェーダといわれるのです。
青年バラモンはブッダに質問します。
《ブッダはたとえ話をまじえて答えます。》
「マナサーカ村はここから近くにあり、遠くにはないのは知っていますね。マナサーカ村の出身の人にここからマナサーカ村への行き方を尋ねて間違うことがないように、完全な人である如来は、梵天の共生の道を尋ねられても、間違うことがなく梵天の共生の道の実践方法を知っているのです。」
青年バラモンは懇願します。
ブッダがいいます。
《ブッダの説法が本格的にはじまります。》
「この世界に修行完成者の如来が出現しています。」
《仏の十号の説明》
如来は、
世尊と呼ばれ、阿羅漢で、正遍知とも正等覚とも呼ばれ、
明行足と呼ばれ、善逝で、世間解ともよばれ、
この上ない最高境地を体得した人の無上なる存在であり、
仏性をそなえる調御丈夫とよばれ、天人と人とすべての生き物の教導の師匠であり、
仏のブッダで真理を覚った覚者であります。
仏の十号で呼ばれる悟りを開いた人は
神々の世界、魔の世界、梵天の世界、沙門・バラモンの修行者たち、天界と人間界を含む、
この世界をよく知り、体現したことを説きます。
初めもよく、半ばもよく、終わりもよい、内容もよく、文体もよい教えを説示し、完全無欠で清浄な梵行を明らかにします。
その修行完成者の如来の話を聞いた人は、如来に対する信仰が目覚めて獲得します。
その信仰を獲得した者たちは、「家庭生活は煩わしく、塵まみれの道である。出家生活は執着がない野外のようなものだ。」「家庭を営む者が、ほら貝の磨き抜かれたような完全で清浄な梵行を行うことは容易ではない。わたしは髪とひげをそり、袈裟衣をまとい、家を離れて出家してはどうか?」と財産も家族も捨てて出家します。
このようにして、出家者となり、戒律を守ることによって守られ、正しい行いと、行動を維持して生活します。
身口意の善い行動を維持して、清浄な生活を送り、戒をそなえ、感覚器官の門を守り、注意力と明瞭な意識を維持し満足するのです。
《小中大の戒》
《小の戒》
1、生き物の殺生から離れている。棒や刀などを捨て、すべての生き物に益を与え慈しんで生活しています。
2、人の物を盗むことから離れている。盗みをせず自ら潔白に生活しています。
3、女性とみだらな行為などからも離れています。(身体の行いを清浄にする3つの戒)
1、嘘をつくことから離れている。真実を語り正直で信頼され、世間を欺きません。
2、人と人とを不仲にさせるような言葉は使いません。人と人とが喜び和合する言葉を使います。
3、乱暴な言葉で相手を罵ることから離れています。みんなに喜ばれる優しい言葉を使います。
4、つまらない冗談などからも離れています。(言葉を清浄にする四つの戒)
もろもろ正常な生活の戒をいいます。
〈中戒(清浄な生活)〉
踊りに歌謡、器楽、曲芸や闘いなど見世物の見物から離れています。
将棋に碁遊び、さいころの賭け事など、怠ける原因となる遊びからも離れています。
豪華な椅子や毛皮の絨毯、などからの贅沢に耽ることなどから離れています。
〈大きな戒(避けるべき邪悪な生活手段)〉
あるバラモンや沙門は施された食べ物を食べて生活しながら、次に語る低俗な呪術による邪悪な手段で生活をしています。しかし修行者はそのようなことから離れて戒を守った生活をしています。
手相や身体の特徴による占い、天変地異の占い、夢占い、などの無益な呪術から離れています。
戦争の勝ち負けの判定など無益な予想からも離れています。
願掛け、土地浄化、さらには身体を治療することなど無益な呪術からも離れている。
世間ではこのようなよこしまな生活を営んでいる人がいているが、しかし修行者はそのようなことから離れて戒を守った生活をしています。いかなる場合でも、戒による自己制御によって決して怖れを感じることは有りません。
このように修行者は戒を守り、内心に完璧な福楽を感受します。と小中大の三つの戒の守り方の話が終わりました。
〈感覚器官の門の防護〉
青年バラモンは尋ねます。
ブッダはこたえます。
修行者は、目で見るとき、耳で聞くとき、鼻で臭いをかぐとき、舌で味わうとき、身体で触れるとき、心の意識で物事を認識するとき、この五つの感覚器官で物事を捉えるとき、制御しないままで生活すると、もろもろの欲望や悪いものが入り込んでしまうので、物事の全体にも細部にも捉われないで、修行者はその五つの感覚器官の制御に努め、防護した生活をします。
〈注意力と明瞭な意識〉
青年バラモンは尋ねます。
ブッダはこたえます。
修行者はどんな行動するときも明瞭な意識をもって行動します。衣を着るときも、鉢を持つときも、食べるときも、飲むときも、排便するときもどんな時も自分が今何をしているのかを明瞭な意識を自覚して行動し身につけています。
〈満足〉
青年バラモンは尋ねます。
ブッダはこたえます。
修行者は身を包むだけの衣と腹を満たすだけの托鉢による食事で満足し、どこへ行くにもそれだけででかけます。翼を持つ鳥が飛ぶとき、翼だけで飛ぶように、修行者も最低限のことで満足します。
修行者はこのように戒を身につけ、感覚器官の制御を身につけ、明瞭な意識を身につけて行動し、満足も身につけながら、人里離れたところで瞑想に取り組みます。
修行者は世間に関する貪欲を捨て、貪欲の消えた心をもって生活し、貪欲から心を浄めます。
〈障害の除去〉
世間に関する貪欲を捨て、貪欲の消えた心をもって生活し、貪欲から心を沈めます。
悪意と怒りを捨て、悪意のない心をもって生活し、すべての生き物に思いやりの気持ちをもって、悪意と怒りから心を浄めます。
沈鬱と眠気を捨て、沈鬱と眠気から離れて生活し、光明を想起し、注意力と明瞭な意識を身につけ、沈鬱と眠気から心を浄めます。
心の浮動と後悔を捨て、落ち着いて生活し、内に平静な心を持つ者は、心の浮動と後悔から心を浄めます。疑うことを捨て、疑いを脱して生活し、もろもろの正善なる教えに対する疑いのない者は、疑いから心を浄めます。
〈五つの障害をたとえ話でつたえます。〉
たとえば、借金した人が借金を返し、さらに妻に装飾品を買ってあげて喜びを得るようなもの。
たとえば、病気をしてごはんが食べられない人が病気から回復してご飯をおいしく食べて喜ぶようなもの。
たとえば、牢獄に捕らわれていたものが、無罪解放され財産も保証されていて解放を喜ぶようなもの。
たとえば、ある奴隷が奴隷から解放され自由になり自由を喜ぶようなもの。
たとえば、ある人が財産を運ぶため危険な道を食事もなく運び、無事運び終えて安全な土地に着き、安心を感じて喜びを得るようなもの。
このように借金や病気や牢獄のように、奴隷の不自由さや、危険な道をあるく、これらと同じように、修行僧は五つの障害を自分の心に見るのです。
そして、借金がなくなったように、病気が治ったように、牢獄から解放されたように、奴隷が解放されるように、安全な土地に着くように、捨てられて無くなった五つの障害を自分の心に見るのです。
五つの障害が無くなった修行僧は、自己の中に満悦が生じ、喜悦が生じ、軽安となり、福楽を感じ、福楽の心の者は瞑想の安定(三昧)の境地を獲得します。
〈第一の禅定とその果報〉
(三明経には第一禅しかでてきません)
三昧の境地の次に修行僧は、もろもろの不善なことを離れ、大まかな思考と細かい思考がまだ伴っているが、欲と不善から離れることで生じた喜びと安楽のある、第一の禅定に達してそこにいます。かれの身体は欲と不善から離れた生じた喜びと安楽によって包まれ潤し満たされています。
《四無量心》
(慈悲喜捨の瞑想の教えです)
そして、修行者は
第一の方向を友愛のこころで満たします。
第二の方向も友愛のこころで満たします。
第三の方位も友愛のこころで満たします。
四の方位も友愛のこころで満たします。
上の方位も、下の方位も、横の方位も、すべての方位をすべてのところを、一切の世界を、広大な、大いなる、はかりしれない、怨みなく、悪意のない友愛のこころで満たして生活します。
力強くほら貝をふくように、容易に四方にあますことなく友愛のこころを知らすことができるのです。
友愛のこころを修養すると、こころが解脱し、輪廻の原因となる行為はそこには残っていません。そこに輪廻の原因となる行為は存在していません。これが、梵天との共生にいたる道です。
一切の世界を広大な、大いなる、はかりしれない、怨みなく、悪意のない友愛の心で満たすのです。
友愛(慈)の心を修すると、
哀れみ(悲)の心で満たす、
喜びの(喜)心で満たす、
平静(捨)な心で満たす、
心が解脱し、輪廻の原因はそこに残っていない。梵天との共生の道です。
四無量心のはなしが終わるとブッダは青年バラモンに質問します。
「このような気持ちで生活をしている修行僧には妻がいていますか?心に恨みに悪意、汚れがありますか?自制心はありますか?」
ブッダはさらにいいます、
「このように梵天と修行者は性質が同じなので親しくなるのです。身体が滅びて死んだ後、梵天を共生する根拠なのです。」
《青年バラモン歓喜奉行》
この説法を聞いた青年バラモンは
「すばらしいことです、倒れたものを起こすように、隠されている善い行為を顕すように、道に迷ったものに道を示すように、ゴーダマ・ブッダはさまざまな仕方で、法を示されました。わたくしたちは尊者ブッダと修行者の集まりに帰依します。わたくしたちを在俗信者として受け入れて下さい。いまより命あるかぎり帰依いたします。」


「三明経でのブッダの教えポイント」
・「五蓋」(ごがい)五つの障害の除去の理解
・「十二縁起」の縁起の理解
「図解」「十二縁起」(じゅうにえんぎ)は、苦の原因「四諦」の「集諦」
・「四諦」の理解
「図解」「四諦」(したい) 「苦・集・滅・道」4つの真理と苦の解決法
・梵天との共存の瞑想
さらに追加で
・「解脱」の理解