この法華経(ほけきょう)「薬草喩品第五」(やくそうひゆほん)ほぐし読みは、「大乗仏教」の妙法蓮華経を、大まかにほぐし読みに整理しました。
目次 クリックでジャンプ
法華経(ほけきょう)「薬草喩品第五」(やくそうひゆほん)ほぐし読み⑤
第5章「薬草喩品第五」(やくそうひゆほん)
前回「信解品第四」で、四人の比丘はたとえ話をブッダに伝えて信解します。

《ブッダはカッサパに伝えます》
ブッダはカッサパに伝えます。
三千大千世界を想像しなさい。
その世界に雲が覆い雨を降らせ、いろんな草が育ち、
花が咲き、実がなるように、
如来もいろんな苦をもつ人々がいてるのを知って、法を説きます。
しかし、如来だけが無上のさとりを知っているので、
汚れた人にはすぐには無上のさとりは説かないのです。
真理から近い人と、真理から遠い人と、人々に大きな雲が覆いかぶるように、
如来は雲のように、法の雨を平等に注ぎます。

マンガは仏の教えを伝えている、大きな樹のえん坊だよ!
ちなみに、手前は三つの草だからね!
《三草二木の譬喩をブッダはカッサパに伝えます》
【三草二木の譬喩】
小さな草・・・仏法を聞いて、天の世界に生をうけるのを求める者のたとえ。
中ほどの草・・・仏法を聞いて、煩悩を滅して涅槃に到達し、六神通や三明を求め、縁起の法において、禅定を行い縁覚のさとりを求める者のたとえ。
最上の草・・・仏になるのを求める者のたとえ。
小さな樹・・・慈悲を修して、仏になるのを疑わない者のたとえ。
大きな樹・・・仏の教えを伝えて無数の人を救いに導く者のたとえ。
ブッダはカッサパに伝えます。
「仏の方便によって、仏になる道を示するためであることを知りなさい。しだいに仏に成ることができるであろう。」
****漢訳「薬草喩品第五」のおおまかな内容はここまでです***
ここからはサンスクリット語に書かれているつづきの大まかな内容です。
《ブッダはカッサパに伝えます》
ブッダはカッサパに伝えます。
三種の乗り物は存在しないのです。
カッサパは聞きます。
では、なぜ声聞・縁覚・菩薩と三種あるのでしょうか?
■声聞・縁覚・菩薩の違い
「声聞」(しょうもん)は四諦で仏道を修める者(小乗仏教者)
「縁覚」(えんがく)は十二因縁で仏道を修める者。辟支仏(びゃくしぶつ)とも言う。(小乗仏教者の阿羅漢や婆羅門)
「菩薩」(ぼさつ)は六波羅蜜によって仏道を修める者(主に大乗仏教者)
※ちなみに、サンスクリット語訳には声聞と、偉大な志をもつ求法者の二者で訳されています。
ブッダは答えます。
一つの粘土から、砂糖の陶器、ヨーグルトの陶器、牛乳の容器になるようなものです。
さとりの教えはひとつであって、二つ三つはないのです。
ブッダはカッサパに盲目の男と薬の譬喩を話します。
《盲目の男と薬の譬喩》
生まれつき盲目の男は、空の太陽や月を信じないのでした。
不憫に思った医者がヒマラヤに薬を取りに行き、治療で処方すると
目が見えるようになり、空の太陽や月を信じなかった自分を反省しますが、
見えなかったものが、見えるようになったので自分より勝れた者はいないと思います。
それを見ていた仙人が、神通力で世界が見れていないことを伝え、
欲を捨てると神通力が得れることを伝えます。
すると盲目の男は修行をして神通力を得て、
見えなかった輪廻する世界を見ることができました。
このように人間は無知であるが故に盲目になり生死を繰り返しているのです。
声聞と独学の乗り物を求めるものは盲目の人と同じなのです。
《薬草喩品第五(やくそうひゆほん)おわり》 つづく



