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初転法輪、ブッダが五人の比丘へ法輪をまわす準備「聖求経」⑤
「聖なるものを求めて」⑤*五人の比丘に、初転法輪の準備




中部教典 第26経 「聖求経」(しょうぐきょう)はブッダはなぜ出家をしたのか、ブッダが出家を決意する心境が詳細に書かれているお経です。出家してアーラーラ長老(漢訳では仙人)とウッダカ長老の教えを受けたのち、一人で修行し、独坐で成道(ニッバーナ)しました。自ら如実体現した成道の真理の教えを梵天ブラフマンから懇願されて、説法の伝道を決心し、五比丘に初めて法輪をまわす「初転法輪」の様子が描かれているお経です。このサイトでは5話目です。
第26経「聖求経」ほぐし読み⑤「第五話」
わたくしアーナンダはつづきをこう聞きました!
《第一話》ブッダが出家を決意する「聖求経」①はこちらです。
「第五話」
それから、わたしは五人の修行僧のいるバーラーナシーに向かいました。
五人の修行僧たちは、遠くからやってくるわたしを見て、
「苦行をすてた沙門のゴータマがやってくる、わたしたちと一緒にしていた苦行を捨てて、どこかにいったのだから、ゴータマを迎え入れることはやめておこう。」
と、おたがいに確認し合いました。
しかしわたしが近づくにつれて、五人の修行僧たちは自分たちの確認を守れなくなりました。
「友ゴータマよ、」
と話しかけられましたが、わたしはこのように言いました。
「如来を名前で呼んだり、友よ、と親しいことばで話しかけてはならない。修行僧たちよ、如来は尊敬されるべきものであり、正しく目覚めた者です。
修行僧たちよ、耳を傾けなさい、不死が得られました。わたしは教えを示し説きましょう。わたしの教えられたとおりに行えば、ほどなくして、生きることのはかなさの「苦」から解き放たれる、無上の清らかな修行の完成を、現世においてみずからよく知り、感得し、成就することができるのです。」
しかし、比丘たちはこう言います。
「友、ゴータマよ、あなたはあの苦行を捨てて、努力を捨て、今は贅沢にもかかわらず、どのようにして人間を超えたすぐれた知見に到達できるのでしょう?」
ブッダは言います
「わたしは努力を捨て、贅沢になったのではないのです、如来は尊敬されるべきものであり、正しく目覚めた者です。修行僧たちよ、耳を傾けなさい、不死が得られました。わたしは教えを示し説きましょう。わたしの教えられたとおりに行えば、ほどなくして、生きることのはかなさの「苦」から解き放たれる、無上の清らかな修行の完成を、現世においてみずからよく知り、感得し、成就することができるのです。」
しかし、再び、比丘たちはこう言います。
「友、ゴータマよ、あなたはあの苦行を捨てて、努力を捨て、今は贅沢にもかかわらず、どのようにして人間を超えたすぐれた知見に到達できるのでしょう?」
ブッダは同じ回答をしますが、
さらに比丘たちは、三度も同じことを言います。
「友、ゴータマよ、あなたはあの苦行を捨てて、努力を捨て、今は贅沢にもかかわらず、どのようにして人間を超えたすぐれた知見に到達できるのでしょう?」
三度聞かれたブッダは比丘たちにこういいます。
「さきほど、『わたしは努力を捨て、贅沢になったのではないのです、如来は尊敬されるべきものであり、正しく目覚めた者です。修行僧たちよ、耳を傾けなさい、不死が得られました。わたしは教えを示し説きましょう。わたしの教えられたとおりに行えば、ほどなくして、生きることのはかなさの「苦」から解き放たれる、無上の清らかな修行の完成を、現世においてみずからよく知り、感得し、成就することができるのです。』
と言ったのを覚えていますか?」
比丘たちは答えます。
「尊い方よ、覚えていません」
そして、わたしは五人の比丘の修行僧たちに了解させることができました。
「わたしはあの苦行や難行の実践によって、人間というものを越えた聖なるものにふさわしい、すぐれた知見には到達しませんでした。」
わたしは、
みずからは生まれるものであるけれど、生まれるものに患いを知り、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを得ました。
みずからは老いるものであるけれど、老いるものに患いを知り、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを得ました。
みずからは病めるものであるけれど、病めるものに患いを知り、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを得ました。
みずからは死ぬものであるけれど、死ぬものに患いを知り、死ぬことのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、死ぬことのない無上の安らぎであるニッバーナを得ました。
みずからは憂えるものであるけれど、憂えるものに患いを知り、憂えることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、憂えることのない無上の安らぎであるニッバーナを得ました。
みずからは汚れるものであるけれど、汚れるものに患いを知り、汚れることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、汚れることのない無上の安らぎであるニッバーナを得ました。
そして、わたしに知見が生まれました。
「わたしの解脱は不動である。これが最後の生まれである。もはや再生することはない。」
このことを説き示しましょう。
第六話につづく
五比丘(ごびく)と初転法輪の場所紹介
・五比丘(ごびく)とは、成道前のブッダと苦行を共にした五人の修行僧です。
*パーリ語(サンスクリット語)
・コーダンニャ(カウンディヌヤ)・・・ブッダと同じカピラバットゥ出身
・バッパ(バーシュッパ)
・バッディヤ(バドリカ)・・・ブッダと同じ釈迦族
・マハーナーマ(マハーナーマ)・・・元はコーリヤ族の王子といわれる
・アッサジ(アシュバジット)・・・立ち振る舞いが立派で知られる人物
仏教説話大系 「釈尊の生涯」 すずき出版
・初転法輪の場所は「サールナート」
ブッダが成道して、初めて五人の比丘に説法した場所が、インドのウッタル・プラデーシュ州にある仏教の四大聖地のひとつ「サールナート」です。鹿野苑(ろくやおん)とも呼ばれて原始仏典にでてきます。
「サールナート」にて 撮影ぼーさん
ブッダの教えを理解するには、聞き入れるこころの準備が必要
前回のウパカへの説法のときも、ブッダは相手の聞き入れる体勢が出来ていない状態で
「わたしは一切にうち勝った者であり、一切を知る者である。
一切の煩悩を捨て、煩悩を消滅させて、解脱した。」
と話をすすめて説法が失敗しています。
今回の五人の比丘たちも
「友、ゴータマよ、あなたはあの苦行を捨てて、努力を捨て、今は贅沢にもかかわらず、どのようにして人間を超えたすぐれた知見に到達できるのでしょう?」
と疑いがある状態で、
「わたしは努力を捨て、贅沢になったのではないのです、如来は尊敬されるべきものであり、正しく目覚めた者です。修行僧たちよ、耳を傾けなさい、不死が得られました。わたしは教えを示し説きましょう。わたしの教えられたとおりに行えば、ほどなくして、生きることのはかなさの「苦」から解き放たれる、無上の清らかな修行の完成を、現世においてみずからよく知り、感得し、成就することができるのです。」
と説法を始めても、五人の比丘たちはブッダの話を受け入れる状態ではないので、聞き入れることができていません。
そのやりとりが、三度も続きます。
人間は自分の経験や今まで理解した知識などで、知らず知らずのうちに固執した考え方を保持してしまうと、如来の話でさえも聞き入れることができない状態になっている心理状態と行動が、お経で表現されています。
仏の顔も三度までという、ことわざもありますが、
如来であるブッダは怒らずに、こういいます!
次にブッダは、
「わたしが言ったのを覚えていますか?」
と質問しています。
質問された五人の比丘たちは自分の頭の中でブッダの言った言葉を「覚えていない」と、ありのままの自分の状態に気づきます。
そこで、やっとブッダの教えが聞き入れるこころの体勢が整う状態になるのです。
ブッダの教えでは、七科三十七道品の「信力・信根」が必要
七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうほん)
覚りに至る修行法をまとめた教えで7種類37項目の
五力(ごりき)の
・信力(しんりき)
三宝(仏法僧)を信じる働き。
五根(ごこん)の
・信根(しんこん)
三宝(仏法僧)を信じる能力
ブッダの教えの修得には、このふたつの能力が必要になります。
五つの力で、教えを根づかせる。根本的に必要な修行と解釈できますね!
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