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ブッダが出家を決意 中部経典 第26経「聖求経」
「聖なるものを求めて①」*四門出遊マンガはおまけ




「出家決意」
中部教典 第26経 「聖求経」(しょうぐきょう)はブッダはなぜ出家をしたのか、ブッダが出家を決意する心境が詳細に書かれているお経です。出家してアーラーラ長老(漢訳では仙人)とウッダカ長老の教えを受けたのち、一人で修行し、独坐で成道しました。自ら如実体現した成道の真理の教えを梵天ブラフマンから懇願されて、説法の伝道を決心して、初めての説法するブッダの様子が描かれているお経です。このサイトでは第1話目になります。
では、
聖求教(しょうぐきょう)の始まりです。
第26経「聖求経」ほぐし読み①
《弟子たちがアーナンダにお願いして始まります》
ブッダの弟子たちは、久しくブッダの説法を聞いていないので、アーナンダーに法話がきけるようにしてください。
とお願いします。
ブッダは托鉢に出かけ、托鉢のごはんを食べ終えると、
アーナンダーに日中の休息をとりに行こうと、アーナンダーと講堂に休息にいきます。
夕方になって、独座から立ち上がり、アーナンダーに呼びかけます。
『プッバコッタカ川に沐浴に行こう。』
沐浴をすませたところで、
初めて2回登場できた!きらきら☆彡
と声をかけ、ブッダと一緒に草庵に行きます。
草庵ではすでに修行僧たちがブッダの法話を聞くことを楽しみに集まっていました。
《ブッダの法話が始まります》
「修行僧たちが集まったときにすべき二つがあります。ひとつは法談であり、二つ目は聖なる沈黙です。」
修行者たちよ、二つの探究があります。
「聖なるものの探究」と「聖ならざるものの探究」です。
みずから生まれるものでありながら、生まれるものだけを求め、
みずから老いるものでありながら、老いるものだけを求め、
みずから病めるものでありながら、病めるものだけを求め、
みずから死ぬものでありながら、死ぬことだけを求め、
みずから憂えるものでありながら、憂えるものだけを求め、
みずから汚れるものでありながら、汚れるものだけを求めている。
生まれるもの、老いるもの、病めるもの、死ぬもの、憂えるもの、汚れるものというものは、
子や妻をいい、男女の奴隷をいい、山羊や羊をいい、鶏や豚をいい、象や牛や馬や牝馬をいい、金や銀のことをいうのです。
これらのものは生きる拠りどころであり、これらに縛られ、夢中になり、没頭し、みずから生まれるものでありながら、生まれるものだけを求めているのです。
老いるもの、病めるもの、死ぬもの、憂えるもの、汚れるものも同様で、それらだけを求めているのです。
これが「聖ならざるものの探究」です。
では次に、「聖なるものの探究」とはどのようなものか。
みずからは生まれるものであるけれど、生まれるものに患いを知り、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを求める。
みずからは老いるものであるけれど、老いるものに患いを知り、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを求める。
みずからは病めるものであるけれど、病めるものに患いを知り、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを求める。
みずからは死ぬものであるけれど、死ぬものに患いを知り、死ぬことのない無上の安らぎであるニッバーナを求める。
みずからは憂えるものであるけれど、憂えるものに患いを知り、憂えることのない無上の安らぎであるニッバーナを求める。
みずからは汚れるものであるけれど、汚れるものに患いを知り、汚れることのない無上の安らぎであるニッバーナを求める。
これが、「聖なるものの探究」です。
《ブッダは自分の出家前のエピソードを修行僧に話します》
わたしも以前、覚りを得るまえは
みずから生まれるものでありながら、生まれるものだけを求め、
みずから老いるものでありながら、老いるものだけを求め、
みずから病めるものでありながら、病めるものだけを求め、
みずから死ぬものでありながら、死ぬものだけ求め、
みずから憂えるものでありながら、憂えるものだけを求め、
みずから汚れるものでありながら、汚れるものだけを求めていました。
修行僧たちよ、そのとき、そのわたしは次のように思いました。
いったいどうして、わたしは
みずから生まれるものでありながら、生まれるものだけを求め、
みずから老いるものでありながら、老いるものだけを求め、
みずから病めるものでありながら、病めるものだけを求め、
みずから死ぬものでありながら、死ぬものだけ求め、
みずから憂えるものでありながら、憂えるものだけを求め、
みずから汚れるものでありながら、汚れるものだけを求めているのであるのか。
さあ、わたしはむしろ、
みずから生まれるものであるけれども、生まれるものに患いを知り、
生まれることのない、無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。
みずからは老いるものであるけれども、老いるものに患いを知り、
老いることのない、無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。
みずからは病めるものであるけれども、病めるものに患いを知り、
病めることのない、無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。
みずからは死ぬものであるけれども、死ぬものに患いを知り、
死ぬことのない、無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。
みずからは憂えるものであるけれども、憂えるものに患いを知り、
憂えることのない、無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。
みずからは汚れるものであるけれども、汚れるものに患いを知り、
汚れることのない、無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。と
修行僧たちよ、その後、わたしはまだ年若く、黒々とした髪をし、すばらしい青春にその人生の初期に、母と父は望まず、顔に涙を浮かべて泣いているにもかかわらず、髪とひげを剃りおとし、黄色の衣をまとい、在家から家なき状態へと出家しました。
このように、出家者となったわたしは、なにかしら善なるものをたずね、無上にしてすぐれた静寂の道を求めようと、一人で聖者をたずねにいきました。
第二話へつづく


《どうでもいいマンガの説明・しかし初めての方には必要かもね。》
1コマ目は、杖をもつ男「マスカリン」、アージヴィカ教の開祖「マッカリ・ゴーサーラ」です。今回も手にピンク色の毛糸玉をもっています。


2コマ目は、年がら年中、髪の毛でできた服を着ている「アジタ・ケーサカンバラ」です。この服は夏は暑く、服は寒いのが特徴です。ついに風邪ひいちゃいましたね。初登場の時も寒いのでピンクのセーターを交換して着てますね!ん!?ピンクのセーター!まさかマッカリ・ゴーサーラーの毛糸玉で作られたものでは、、、、!と思った人もいたとは思いますが、偶然です。ワンノートで絵を描いていたので色が少ないのですね・・・。


3コマ目は、またワンちゃんのごはんを勝手に食べて怒られてる、道徳否定論者の「プーラナ・カッサバ」です。もうここまで来たら、死んでも治らないですね、、、。


4コマ目は、ジャイナ教の開祖「ニガンタ・ナータプッタ」です。裸形者ですので、いつも素っ裸です。


今回も頑張って、四門出遊を上手にまとめることができました。
六師外道の名前をクリックするとマンガがみれます。是非どうぞ!
それといい忘れていましたが、4コマ全て出ている右の好青年は、出家前のブッダです。
ブッダの特徴、三十二行相の「瞳が青い」を再現しています。美青年が憂えるという乙女心をくすぐるロマンスも表現していますが、、、このサイトまったく乙女たちには届いていないように感じております・・・。おやじギャグのせいだと、、、。失礼しました。
あと、この頭にウナギを巻いてるこの人と、


この人も、付け加えて六人で「六師外道」です。




大事なお経におちゃらけを交えてすいません・・・。
第2話はこちらです!