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長部教典 第22経 大念処経(だいねんじょきょう)②
「身受心法」(しんじゅしんほう) 身体の観察
長部経典 第22経「大念処経」(だいねんじゅきょう)のほぐし読みの第2話です。「身受心法」の「身」をさらに細かく観察していく内容です。大念処経は、すべてが瞑想の教えになります。頭の中で身受心法を実修しているイメージで読み進めることをおすすめします。長いお経ですので、段落で分けて紹介します。ピンク色の文字は図解で解説がありますので、図解↓と連動して読んでみて下さい。
『大念処経ほぐし読み①』は←こちらです!
《行往臥坐(ぎょうおうざが)の観察》
つぎに修行僧たちよ、修行僧は歩いていれば「わたしは歩いている」と知り、また、立っていれば「わたしは立っている」と知るのです。また、坐っていれば「わたしは坐っている」と知り、臥(ふ)せていれば「わたしは臥せている」と知るのです。いかなる状態であれ、自分自身の身体がおかれている状態のとおりに、それを知るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、また、客観的に自分の身体について身体を観察し、あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、また、身体の中で衰滅する現象を観察し、また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのです。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
《自分の行いの観察・正知》
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、出ていくときも、もどるときにも、よく気を付けて行っている。前を見るときにも、後ろを見るときにも、よく気をつけて行っている。腕を縮めるときも、伸ばすときも、よく気をつけて行っている。大衣や衣鉢をとるときにも、よく気をつけて行っている。食し、飲み、噛み、味わうときにも、よく気をつけて行っている。大小便をするときも、よく気をつけて行っている。歩いていき、立ち、坐り、眠り、目覚め、語り、沈黙しているときにも、よく気をつけて行っているのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、また、客観的に自分の身体について身体を観察し、あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、また、身体の中で衰滅する現象を観察し、また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのです。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
《身体を不浄物とみなす観察》
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、髪の毛より下、足の裏より上の身体は皮膚で覆われており、さまざまな不浄物でみたされていると観察するのです。
つまり、「この身体には、髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、助膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪、涙、血清、唾液、鼻汁、関節骨液、小便がある」と
修行僧たちよ、これはちょうど、両方に口のある袋のなかに、いろんな種類の穀物、すなわちサーリ籾米、緑豆、豆、胡麻、玄米が一杯に入っているようなものです。見分ける眼のある人が、「これはサーリ籾米である。これは緑豆である。これは豆である。これは胡麻である。これは玄米である。」と観察するようなものです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、また、客観的に自分の身体について身体を観察し、あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、また、身体の中で衰滅する現象を観察し、また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身に現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのです。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
《身体の地水火風の要素を観察》
またさらに、修行僧たちよ、修行僧はこの身体が、あるがまま、配置されているままに、要素ごとに観察するのです。つまり、身体には「地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある」と。
修行僧たちよ、これはあたかも、腕のよい牛の屠殺者が、牛の肉片を、分割して並べて坐っているようなものです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、また、客観的に自分の身体について身体を観察し、あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、また、身体の中で衰滅する現象を観察し、また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、この世のなかで、なにものにも執着しないのです。修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
大念処経ほぐし読み②はここまで
「行往坐臥・自分の行い(正知)・不浄物の身体・地水火風の観察」
身受心法の「身」のポイント
- 身受心法の「身」の観察を深めて、
この世における貪欲や憂いを除去していく瞑想部分になります。
《自分の行いの観察・正知》を調べていくと!
《自分の行いの観察・正知》は、
長部経典 第2経「沙門果経」の注意力・明瞭な意識の修行と同じです!
「修行者はどんな行動するときも明瞭な意識をもって行動します。衣を着るときも、鉢を持つときも、食べるときも、飲むときも、排便するときもどんな時も自分が今何をしているのかを明瞭な意識を自覚して行動し身につけています。」
↑長部 第2経「沙門果経」より
「沙門果経の〈清浄な修行〉」
- 〈戒をそなえ〉、
- 〈感覚器官の門を守り〉、
- 〈注意力〉(念、サティと呼ばれます。①教えの記憶、②心が散漫にならないように注意力をそなえる。③四念住の瞑想で、常に無常・苦・無我を意識すること。の意味があります。ここでは②)
- 〈明瞭な意識〉を維持し
- 〈満足〉しているのです。
そして、
・五蓋を除去して、
・四禅の瞑想で、
・無我の理解洞察をして、
・四諦を体現する。
修業が沙門果経の内容です。
《合わせて読んでね》
長部 第2経「沙門果経」(しゃもんかきょう)修行の成果
この大念処経の教え、四念処の「身受心法」の「身」の観察は、沙門課経の途中の「明瞭な意識」ででてきます!
このふたつの重要なお経の後半部分を照らし合わせて理解していくと!四念処が煩悩を除去していく瞑想方法なのがよくわかってきます!
ということは、身受心法の瞑想をする前は、感覚器官の門を守ったら効果的ということになりますね!
このように、経典はたくさんあり複雑ですが、重要な教えは同じ言葉でたくさん説法にででてきます。これら教えをつなぎ合わせると、ブッダの教えがとても論理だてて明確化されていることが理解できます!
だから、繰り返し、繰り返し、じっくりでお付き合いくださいね!
《身体を不浄物とみなす観察》と《身体の地水火風の要素を観察》
《身体を不浄物とみなす観察》と《身体の地水火風の要素を観察》も、
精神統一していく瞑想ではなく、観察していく瞑想になります。
大念処経は、
ブッダが最初に宣言している、「正しい道(八正道・はっしょうどう)の修得のために、ニッバーナ実現のための、ただ一つの道がある!それが『四念処』です!」
のことば通りに、八正道の正念(しょうねん)の修行を徹底的に説法している内容になります。
よくわかるのが浪花宣明先生の牛の屠札者の解説になります!
《牛の屠殺者 第22経 浪花宣明先生の解説》
牛を飼育する者も、屠殺場に連れていく者も、屠殺する者も、屠殺された牛を見る者も、その牛は雄牛であるとか、雌牛であるという想いをもつが、解体された牛の肉を見る者には雄牛であるとか、雌牛であるという想いはなく、ただ牛の肉であるという想いだけがある。これと同様に、人も愚かな凡夫のときには、わたしは生ける者であるとか、人間であるとかという想いをもつが、身体の要素の集合として見る観法に熟達すると、生ける者とか人間とかという想いは消えて、「ただもろもろの要素があるという想いが確立する」と解説があります。
《「苦」の滅の実現方法》
「図解」八正道(はっしょうどう)
地水火風に関してはこちら↓
《ブッダ当時の思想》
沙門(しゃもん)のウパニシャッド(奥義書)と六師外道の思想
でもほんと、髪の毛も爪も床に転がっていたら、汚いだけだもんね!掃除も掃いて除くだから、煩悩も気づいてとり除くよ!
今回は生きている自分を観察しているね!次回はどんなことを観察するんだろうね!つぎも見てみよう!