目次 クリックでジャンプ
原始仏典 長部経典 第2経 沙門果経(しゃもんかきょう)
「沙門果経」(しゃもんかきょう)原始仏典 経蔵 長部 第2経で、「ブッダが順序だてて修業の方法」を説いていくお経です。ブッダの教え・当時の六師外道の思想など解説を付けて紹介します。とても長いので目次や図解で区切って読んでみて下さい!マンガ「沙門果経」もつけておきます!
「修行の成果」




《ブッダ登場》
ブッタは1250名のブッダの弟子の修行僧と共に滞在していました。(1250名の弟子というのは、ブッタが悟りを開いたあと、カッサパ三兄弟という、火の祭典で神に祈りを捧げる呪術的宗教の指導者とその弟子1000人がブッタに帰依してブッタの弟子になりました。さらにサンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子250名も弟子に加わりました。その中に有名なサーリプッタ、漢訳舎利弗・般若心経では舎利子とモッガラーナ、漢訳目連もいました。)
そのころマガタ王国では、ビンビサーラ国王の夫人ヴェーデーヒ妃の息子アジャータサットゥ王子が、満月の不薩日(在家の仏教信者は八戒を守り、僧侶から説法を聞き食事を布施するならわしの日)に、「今夜の月はとても美しく気持ちがよい夜です。今夜はどの僧侶から話を聞いて心を浄めたらいいだろうか?」と家臣に尋ねたら、六師外道からお話を聞くことを勧められます。しかし、アジャータサットゥ王子は気乗りしませんでした。そこにジーヴァカ・コーマーラバッチャが修行完成者であるブッタからお話を聞いたらどうでしょうか?と提案します。ブッタは10の名称(仏の十号、後生漢訳され音訳や意訳で、たくさんの呼び名で表現されています)で呼ばれるほどの逸材であることをアジャータサットゥ王子に説明して、ブッダに会うことを強く進め伝えます。
《仏の十号》
ブッタは①威徳ある人、至福をもつ人、神聖な人の意味の世尊と呼ばれ、②修業完成者でほかの人から供養されるに値する人の阿羅漢であり、③正しく覚った正真の覚者(サンマサンブッタ・三藐三仏陀)、正遍知とも正等覚とも呼ばれる者であり、④智慧の明と修業の実践の行の具足完備した明行足と呼ばれる者であり、⑤完全に仏の悟りの世界に逝く善逝と呼ばれるよく逝ける者であり、⑥世間を見抜いて悟りを教示できる世間解とよばれ、⑦この上ない最高境地を体得した人の無上なる存在であり、⑧仏性をそなえるすべての人間の調練者である調御丈夫とよばれ、⑨天人と人とすべての生き物の教導の師であり、⑩仏のブッダで真理を覚った覚者。
《 アジャータサットゥ王子がブッダに会い行く 》
アジャータサットゥ王子は家臣に500頭の象の乗り物にタイマツやお供させる女性も用意させて、国王の威勢を示して、ブッダに会いにマンゴー林に向かいました。ところが、マンゴー林に近づいても、物音ひとつなくブッダの大僧団の存在が感じられません。静か過ぎて、王子はなにか罠に陥れられてるのではないか、騙されているのではと恐怖心を抱きましたが、ブッダ達修行僧は澄み切った湖のような、静まり返った静謐(せいひつ)な所作で瞑想していました。王子はこの修行僧が備えている静謐さを、わが子のウダーイバッダにも備えて欲しいと感銘しました。王子はブッダに礼拝し、修行僧に合掌してから、片隅に座りブッダに質問をしました。
世間にはさまざな職業で仕事をして、その技能の対価に対して報酬を受け取り、その報酬で自分自身に、父や母に、妻や子供など家族を満足させて養い生活し、友達や知人とも楽しく生活して過ごします。さらにバラモンや沙門に対してもきちんと布施もして満足な生活を送ります。
このように、「目に見える形で修行の成果」を示す事ができますか?
とブッダに質問しました。
するとブッダは王子に「今までに同じ質問を他のバラモンや沙門にしましたか?あるならその人達の回答を教えて下さい。」と尋ねます。
アジャータサットゥ王子はありますと言い、そして
《六師外道達の「目に見える形の修行の成果」》
の回答を答えていきます。
《 プーラナ・カッサパ 》
プーラナ・カッサパに同じ質問をした彼の回答は、「自分を傷つける者、他人を傷つける者、生き物を殺す者、他人の物を盗む者、こういう者の行為は罪悪となりません。また布施をしてもしなくても、供養してもしなくても功徳などありません。」と行為はなんの結果ももたらさないと「非作用」の回答をしました。
マンゴーの話を聞いているのに、ラブジャの話を解答されるように感じて、王子は内心不満でした。しかしプーラナ・カッサパは自分の領内に住んでいる尊敬に値するはずの修行僧に、非難できるはずもないと思い、彼の回答を称賛も非難もしませんでした。
《マッカリ・ゴーサーラ》
マッカリ・ゴーサーラに同じ質問をした彼の回答は、「生きているものが、清らかになるのも不浄になるのも、直接な要因(因)と間接的な要因(縁)もなく、清らかになったり、汚れたりする。自分の修行で天界や欲界や悟りの境地にうまれる行為もない。他者の教示の行為でも阿羅漢果に達することもない。人による行為はなにもない。すべての生きるもの、呼吸するもの、すべて発生したもの、すべての生命あるものは、自在力がなく、現世・来世・涅槃をもたらす力も、精進もない。ただ運命によって決定し、本来の性質に左右され六種の階級(残忍な職業の黒い階級、仏教の修行僧の青い階級、ジャイナ教の赤い階級、白衣の在家者、裸行者の弟子の黄色い階級、アージヴィカ教徒の白い階級、マッカリゴーサラの純白の階級)に生まれ変わり、苦と楽を実感する。人間や動物などの生まれかわりには百四十万種類、六千種類、六百種類もある。行為には五百種類があり、五つの感覚器官の五種類があり、身口意の三種類があり、業と半業もある。六十二の修行道があり、六十二の中間劫があり、六種の階級があり、八種の人地(愚鈍の階級、遊びの階級、思考の階級、正歩の階級、訓練の階級、出家修行の階級、勝者の階級、越脱の階級)があり、四千九百の職業、四千九百の遊行者、四千九百の蛇の住みどころ、二千の感覚器官、三千の地獄、三十六種類の塵の世界、七種の意識を持つ生物、七種の意識を持たない生物、七つの節を持つ生物、七種の神々、七種の人間、七種の鬼、七種の湖、七種の結び目、七百種の結び目、七種の断崖、七百種の断崖、七百種の夢、七百種の夢があります。そして八百四十劫の大劫があり、そこで愚者も賢者も流転して、輪廻して、苦の終わりを実現するのです。その場合、わたしはこの修行の戒によって未熟な業を消滅させてしまおうということはありません。苦と楽は升で量られたようなもので、輪廻は限定されていて、そこには増減もなければ、長くなったり変動もないのです。ちょうど糸玉が投げ出されると、糸がなくなるまで転がるように、愚者も賢者も流転し輪廻したあとで、苦の終滅を実現するでしょう。」と「輪廻による浄化」を説明しました。
マンゴーの話を聞いているのに、ラブジャの話を解答されるように感じて、王子は内心不満でした。しかしプーラナ・カッサパは自分の領内に住んでいる尊敬に値するはずの修行僧に、非難できるはずもないと思い、彼の回答を称賛も非難もしませんでした。
《 アジタ・ケーサカンバラ 》
アジタ・ケーサカンバラに同じ質問をした彼の回答は、「布施はありません、供養もありません、善行・悪行の果報も報いもありません。この世もあの世もなく、父も母も天の世界の天もいません。覚った境地のバラモンも沙門もいません。ただこの人間とは地水火風の四大元素からなり、死んだときには、地は地、水は水、火は火、風は風に戻ります。感覚器官は虚空に移りゆきます。人は死者を棺に入れて運んでいき、火葬場でいろんな死を悼む言葉をかけられるが、骨も供物も灰になります。功徳の布施は愚者の考え出したもので、虚妄の話にすぎません。愚者も賢者も肉体の消滅によって、絶滅し滅亡し、死後には存在しません。」と「断滅論」を説明しました。
マンゴーの話を聞いているのに、ラブジャの話を解答されるように感じて、王子は内心不満でした。しかしプーラナ・カッサパは自分の領内に住んでいる尊敬に値するはずの修行僧に、非難できるはずもないと思い、彼の回答を称賛も非難もしませんでした。
《 パクダ・カッチャーヤナ 》
パクダ・カッチャーヤナに同じ質問をした彼の回答は、「地・水・火・風と、苦・楽・霊魂の七種類の要素は作られたものではなく、作らせられたものでもなく、創造されたものでもなく、創造するものでもなく、何物も産み出さず、動かず、変化もしないです、相互に苦楽など関係することもないのです。殺害する者が、刃物で誰かを殺害しても、七種類の要素の間を切りつけるだけなのです」と「別の観点からの」を説明しました。
マンゴーの話を聞いているのに、ラブジャの話を解答されるように感じて、王子は内心不満でした。しかしプーラナ・カッサパは自分の領内に住んでいる尊敬に値するはずの修行僧に、非難できるはずもないと思い、彼の回答を称賛も非難もしませんでした。
《 ニガンタ・ナータプッタ 》
ニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教の開祖・マハーヴィーラとも呼ばれます。)に同じ質問をした彼の回答は、「自己の完成者・自己の制御者・自己の確立者と呼ばれる、わたくしニガンタは四つの防護によって守られています。その四つとは、水を避け、すべての水によって悪を制し、悪を除き、悪の制御を体得します。と「四つの防衛からなること」を説明しました。
マンゴーの話を聞いているのに、ラブジャの話を解答されるように感じて、王子は内心不満でした。しかしプーラナ・カッサパは自分の領内に住んでいる尊敬に値するはずの修行僧に、非難できるはずもないと思い、彼の回答を称賛も非難もしませんでした。
《 サンジャヤ・ベーラッティプッタ 》
サンジャヤ・ベーラッティプッタに同じ質問をした彼の回答は、「もしあなたがわたしに、ほかの世界は存在するか?と質問したとすると、私はほかの世界は存在すると答えるでしょう。しかしわたしはそうはしません。その通りだとわたしは考えないし、別であるとも考えません。そうではないとも、そうではないのではないとも考えません。また、他の世界は存在するのかしないのか? 天の世界に天人は存在するかしないのか? 善悪の業に報いはあるのかないのか? 悟りを開いた人の死後は存在するのかしないのか? と質問されても、そうではないとも、そうではないのではないとも考えません。」と「錯乱したこと」を説明しました。
マンゴーの話を聞いているのに、ラブジャの話を解答されるように感じて、王子は内心不満でした。しかしプーラナ・カッサパは自分の領内に住んでいる尊敬に値するはずの修行僧に、非難できるはずもないと思い、彼の回答を称賛も非難もしませんでした。
と六師外道の解答をブッタに伝えた後に、アジャータサットゥ王子は改めてブッタに「目に見える修業の成果」を示すことはできますか? と質問をします。
《ブッダが答える修行の第一の成果》
ブッタは「出来ます。その前にそれに関連する質問をしますので、王子の考えをお聞かせください」と王子に質問します。
「もしあなたのためにまじめに働くひとりの奴隷が、王子みたいに立派に生まれ変わることを目指して、髪とひげをそり、袈裟をまとい、家庭を離れて出家して、身体を制し、言葉を慎み、身を飾らず、ささいな食べ物にも満足して、世間から離れて、功徳の果報を積むために孤独に修行をしています。王子は出家したその者を、自分の奴隷は自分のために働くのだと連れもどしますか?」すると王子は「そんなことはありません。むしろわたしのほうが、彼に挨拶をして、立って出迎え、座をすすめ、食べ物など布施するでしょう。」と答えました。
するとブッタは「王子がそのようにこたえるならば、目に見える修行の成果はあるのではないでしょうか? これが修行の第一の成果です。」
《修行の第二の成果》
アジャータサットゥ王子は他にも目に見える修行の成果はありますか? と尋ねブッタはありますと答えてから、王子にさらなる質問をしました。
「もしあなたの国でまじめに働き税を納め、財産を増やす、ひとりの農民の家長が、王子みたいに立派に生まれ変わることを目指して、髪とひげをそり、袈裟をまとい、家庭を離れて出家して、財産を手放し、身体を制し、言葉を慎み、身を飾らず、ささいな食べ物にも満足して、世間から離れて、功徳の果報を積むために孤独に修行をしています。王子は出家したその者を、ふたたび家長として自分のために税を納め働くのだと連れもどしますか?」すると、王子は「そんなことはありません。むしろわたしのほうが、彼に挨拶をして、立って出迎え、座をすすめ、食べ物など布施するでしょう。」と答えました。
するとブッタは「王子がそのようにこたえるならば、目に見える修行の成果はあるのではないでしょうか?これが修行の第二の成果です。」
《さらにすぐれた修行の成果》
さらにアジャータサットゥ王子は「これよりも目に見える修行の成果はありますか?」とブッタに尋ねます。ブッタは「よく聞いてください。今まさにこの世に悟りを開いた修業完成者がいてます。仏の十号で呼ばれる悟りを開いた人は完全無欠で世間の人々を苦から解放する清浄な梵行を明らかにします。」
原始仏典での梵行①~⑩
①布施②奉仕③五戒④四無量(慈悲喜捨の瞑想)⑤淫行を離れること⑥妻の満足⑦精進⑧八斎戒(五戒と六、化粧を使わない。七、娯楽観覧しない。八、豪華な寝具を使わない。九、決められた時間以外食事しない。九つありますが最後は斎といわれ、八の戒と一つの斎で「八斎戒」になります。)⑨八正道⑩教説。
「その教えを色んな階級の人々が聞いて、ブッタに対する信仰を持ち、家庭生活は煩わしく塵まみれの道であり、清浄な梵行を行うことは容易ではないと思い、髪とひげをそり、袈裟をまとい、家庭を離れて、財産を手放し、出家をします。出家者となり戒律を守ることで守られます。
パーティモッカ(別解脱)
ひとつひとつ戒律を守ることでそれぞれの悪を防御する
①別解脱律儀、在家者の五戒と八戒斎、沙門・沙門尼の10戒、正学女の六法戒、比丘の250戒と比丘尼の348戒
②禅定に入り悪を防御する静慮律儀(定共戒)
③道を体得して防御を無漏律儀(道共戒)三種類あります)
[あわせて読みたい]図解」25.「戒律」(かいりつ)とは「律蔵」(りつぞう)の経典
そして、正しい行動をして生活します。身体と言葉に関して良い行動をして、清浄な生活をし、
〈清浄な修行〉
- 〈戒をそなえ〉、
- 〈感覚器官の門を守り〉、
- 〈注意力〉(念、サティと呼ばれます。①教えの記憶、②心が散漫にならないように注意力をそなえる。③四念住の瞑想で、常に無常・苦・無我を意識すること。の意味があります。ここでは②)
- 〈明瞭な意識〉を維持し
- 〈満足〉しているのです。
戒をそなえ、感覚器官の門を守り、注意力そなえ、明瞭な意識を維持し、満足しているのです。
とブッタは清浄な修行がさらなる成果と答えます。すると、アジャータサットゥ王子は〈1から5の順番〉でブッタに修行者はどのように獲得しているのかを質問していきます。
《戒をそなえる》
〈小さな戒(初梵行戒、活命第八といわれる)〉
修行僧の守る戒には、生き物の殺生から離れている。棒や刀などを捨て、羞恥心と慈愛の心を抱き、すべての生き物に益を与え慈しんで生活しています。人の物を盗むことから離れている。与えられていない物をとることから離れている。盗みをせず自ら潔白に生活しています。女性とみだらな行為などからも離れています。離欲の生活者として、性的行為や卑猥な行動を離れています。(身体の行いを清浄にする3つの戒)
嘘をつくことから離れている。真実を語り正直で信頼され、世間を欺きません。人のことを悪く言うことから離れています。人と人とを不仲にさせるような言葉は使いません。人と人とが喜び和合する言葉を使います。乱暴な言葉で相手を罵ることから離れています。みんなに喜ばれる優しい言葉を使います。つまらない冗談などからも離れています。その場に適したことを話し、実際のことを語り、道理や教法を比喩をまじえながら、意味が分かるように話します。(言葉を清浄にする四つの戒)
種子類、草木類を傷つけることから離れています。食事も一日に一度で済ませ、夜食などしません。舞舞、歌謡、音楽などの娯楽の鑑賞することから離れています。花飾り、香料、塗香など身につける飾り物から離れています。豪華な寝具も使用しません。金銀も受け取とることから離れています。生の穀物や肉も受け取ることから離れています。女性や少女、奴隷、山羊や羊、鳥、豚、象、牛、馬なども受け取取ることから離れています。田畑も受け取ることから離れています。使い走りの仕事からも離れています。売買から離れています。金の重さをごまかしたりすることから離れています。賄賂など邪悪な行為からも離れています。(もろもろまとめて正常な生活の戒)
〈中戒(清浄な生活)〉
あるバラモンや沙門は施された食べ物を食べて生活しながら、次に語るような生活をしています。しかし修行僧はそのようなことから離れて戒を守った生活をしています。
草木や種子など損なうことから離れています。食べ物や飲み物、衣類に寝具など持ち物の貯蔵から離れています。踊りに歌謡、曲芸や闘いなど見世物の見物から離れています。将棋に碁遊び、さいころの賭け事など、怠ける原因となる遊びからも離れています。豪華な椅子や毛皮の絨毯、必要以上に大きい寝具などからの贅沢に耽ることから離れています。マッサージや入浴のアロマや香水などのエステや、腕輪、髪飾りの装飾品など身を飾ることから離れています。王の話、盗賊の話、戦争の話、世界の話、世間話などや祖霊の話、世界についての話、存在するか存在しないかの議論など無益な会話から離れています。「君はこの教義と戒律を理解していないが、私はこの教義と戒律を理解している、どうして君がこの教義と戒律を理解できるのでしょうか?」「わたしの説は理にかなっているが、君の説は理にかなっていない。」このような論争からも離れている。国王や大臣やバラモンからの使い走りの仕事からも離れています。人をだます詐欺や占いや虚言、利益を貪ることからも離れています。
〈大きな戒(避けるべき邪悪な生活手段)〉
あるバラモンや沙門は施された食べ物を食べて生活しながら、次に語る低俗な呪術による邪悪な手段で生活をしています。しかし修行僧はそのようなことから離れて戒を守った生活をしています。
手相や身体の特徴による占い、天変地異の占い、夢占い、ネズミのかじり後による占い寿命占いから離れています。火をたいて、お米や油や杓子や血を神に捧げる行為なども離れています。身体による占術、土地や領土や墓地でのの占術など、超自然的な力の存在を信じ、特殊な自然現象や人間現象の観察によって将来の出来事や人の運命などを判断し予言する術から離れています。鬼霊を鎮める呪文、蛇やさそり、ねずみにかまれたときなどの解毒の呪文、からすや鳥の鳴き声による占いなど神秘性によって効力をあらわす行為から離れています。
宝石の相、刀や剣の相、衣服の相、女性の相、男性の相、少年の相、奴隷の相など、物や人の見ためや身体のつくりから性格判断や生涯の運勢を割り出すことから離れています。
戦争の勝ち負けの判定など無益な予想からも離れています。太陽や月や星など天体の動きの占いなどからも離れている。今年は豊作になるや不作になる、飢饉がくるなどといった無益な予測からも離れている。結婚によい吉日など日取りに関わることや、幸運になる呪文や不幸に陥れる呪文、鏡に神託を問う祈祷、太陽や大梵天に奉仕する祭司などからも離れてい。願掛け、土地浄化、さらには身体を治療することなどからも離れている。
世間ではこのようなよこしまな生活を営んでいる人がいてるが、しかし修行僧はそのようなことから離れて戒を守った生活をしています。いかなる場合でも、戒による自己制御によって決して怖れを感じることは有りません。
このように修行僧は戒を守り、内心に完璧な福楽を感受します。と小中大の三つの戒の守り方の話が終わりました。
《感覚器官の門の防護》
王子は次に、修行僧はどうのように感覚器官の防護をしているのですかとブッタに尋ねます。
修行者は、目で見るとき、耳で聞くとき、鼻で臭いをかぐとき、舌で味わうとき、身体で触れるとき、心の意識で物事を認識するとき、この五つの感覚器官で物事を捉えるとき、制御しないままで生活すると、もろもろの欲望や悪いものが入り込んでしまうので、物事の全体にも細部にも捉われないで、修行者はその五つの感覚器官の制御に努め、防護した生活をします。
《注意力と明瞭な意識》
王子は次に、修行僧はどのように注意力と明瞭な意識を身につけるのですかとブッタに尋ねます。
修行者はどんな行動するときも明瞭な意識をもって行動します。衣を着るときも、鉢を持つときも、食べるときも、飲むときも、排便するときもどんな時も自分が今何をしているのかを明瞭な意識を自覚して行動し身につけています。
《満足》
王子は次に、修行僧はどうのように満足しているのですかとブッタに尋ねます。
修行僧は身を包むだけの衣と腹を満たすだけの托鉢による食事で満足し、どこへ行くにもそれだけででかけます。翼を持つ鳥が飛ぶとき、翼だけで飛ぶように、修行僧も最低限のとで満足します。
修行僧はこのように戒を身につけ、感覚器官の制御を身につけ、明瞭な意識を身につけて行動し、満足も身につけながら、人里離れたところで瞑想に取り組みます。
修行僧は世間に関する貪欲を捨て、貪欲が消えた心をもって生活し、貪欲から心を浄めます。
〈ブッダは、さらに修行の内容を説明します。〉
《障害の除去・五蓋の除去》
悪意と怒りを捨て、悪意のない心をもって生活し、すべての生き物に思いやりの気持ちをもって、悪意と怒りから心を浄めます。
沈鬱と眠気を捨て、沈鬱と眠気から離れて生活し、光明を想起し、注意力と明瞭な意識を身につけ、沈鬱と眠気から心を浄めます。心の浮動と後悔を捨て、落ち着いて生活し、内に平静な心を持つ者は、心の浮動と後悔から心を浄めます。疑うことを捨て、疑いを脱して生活し、もろもろの正善なる教えに対する疑いのない者は、疑いから心を浄めます。
たとえば、借金した人が借金を返し、さらに妻に装飾品を買ってあげて喜びを得るようなもの。
たとえば、病気をしてごはんが食べれない人が病気から回復してご飯をおいしく食べて喜ぶようなもの。
たとえば、牢獄に捕らわれていたものが、無罪解放され財産も保証されていて解放を喜ぶようなもの。
たとえば、ある奴隷が奴隷から解放され自由になり自由を喜ぶようなもの。
たとえば、ある人が財産を運ぶため危険な道を食事もなく運び、無事運び終えて安全な土地に着き、安心を感じて喜びを得るようなもの。
このように借金や病気や牢獄のように、奴隷の不自由さや、危険な道をあるく、これらと同じように、修行僧は五つの障害を自分の心に見るのです。
そして、借金がなくなったように、病気が治ったように、牢獄から解放されたように、奴隷が解放されるように、安全な土地に着くように、捨てられて無くなった五つの障害を自分の心に見るのです。
五つの障害が無くなった修行僧は、自己の中に満悦が生じ、喜悦が生じ、軽安となり、福楽を感じ、福楽の心の者は瞑想の安定(三昧)の境地を獲得します。
《四禅の瞑想の教えになります》
〈第一の禅定とその果報〉
三昧の境地の次に修行僧は、もろもろの不善なことを離れ、大まかな思考と細かい思考がまだ伴っているが、欲と不善から離れることで生じた喜びと安楽のある、第一の禅定に達してそこにいます。かれの身体は欲と不善から離れた生じた喜びと安楽によって包まれ潤し満たされています。
たとえば、銅製の容器に粉せっけんを振りまき、水を少し入れこねると、粉のかたまりに油っぽい湿り気がしみ込んでいきわたり、内も外にもしみわたり、漏れることがないようなものです。これが目に見える果報です。
〈第二の禅定とその果報〉
さらに、大まかな考察と細かい考察が消えることによって、内心が清浄で、心が一点に集中され、大まかな考察と細かい考察を離れ、心の安定より生じた喜びと安楽のある、第二の禅定に達してそこにいます。かれの身体は心の安定より生じた喜びと安楽によって包まれ潤し満たされています。
たとえば、雨も降らず水も流入してこない池があって、池の底から冷たい水が湧き出て池を満たすと池全体が冷たい水で満たされます包まれます。これがさらに優れた目に見える果報です。
〈第三の禅定とその果報〉
さらに第二禅の喜びからも離れることによって、超越的で注意力と明瞭な意識をもって生活し、安楽を身体で感じ、聖者たちが「超越的で注意力と明瞭な意識をもっている者」と呼ばれる第三の禅定に達してそこにいます。
かれの身体は心の安定より生じた喜びと安楽によって包まれ潤し満たされています。
たとえば、蓮の花が池の中で成長していると、池のつめたい水で満たされ包まれるようなものです。これがさらにすぐれた果報です。
〈第四の禅定とその果報〉
さらに第三禅の安楽も断ち、苦をも断つことにより、苦もなく楽もないく、超越より生じた注意力がもっとも清浄になっている第四の禅定に達してそこにいます。かれはこの身体を清浄で純白な心をもって満たします。
たとえば、人が白い布で包まれるように、白い布に触れないところが無いように包まれます。
《無我の理解洞察》
〈無我の理解洞察〉
禅定で無常・苦・無我を洞察する智慧、「智見」のことです。
心が安定し、清浄で純白となり、汚れなく、心に付随する煩悩をも離れ、柔軟になり、行動に適応し、不動なものになると、真理である、無常、苦、無我に対して心を傾けます。自分の身体は両親から生まれ、食べ物をたべて生きていているが、無常であって、たえず変化して老死に向かっている。しかし、私の意識は自分の体に依存して、ここに付随している。と洞察します。
それはたとえば、青・黄・赤・白の本物のきれいな宝石を見て、青・黄・赤・白の本物のきれいな宝石だと観察するようなものです。
《意から成る智》
「色界の第四禅を体得して、心が安定し神通力が得られる基礎なる禅に入り」、清浄で純白となり、汚れなく、心に付随する煩悩をも離れ、柔軟になり、行動に適応し、不動なものになると、修行僧は心意からなる身体(意生身)の創造に対して心を傾けます。かれは物質的な身体から、別の身体、心意からなり、大小すべての四肢部分をそなえ、感覚器官も欠けずにそなわった身体を創造するのです。
たとえば、ムンジャ草からその茎を引き抜いて、ムンジャ草と茎は別のものであるが、茎はムンジャ草から引き抜かれたものだ。とみるようなものです。
短剣をサヤから抜いて、短剣とサヤは別々のものだが、短剣はサヤからき抜かれた。蛇と抜け殻とみるようなものです。
これがさらなる目に見える修業の果報です。
《さまざまな超能力・神通力》
この心が安定した状態から、超能力である神通力に対して心を傾けます。
ひとつになっては多になり、多になってはひとつになります。現れたり隠れたりします。塀を超え下記を超え山を越えて、まるで空中を行くがごとく、障害もなく通り抜けます。大地でも水中にいてるみたいに、浮かんだり、没入したり、水中でも沈むことなく、空中でも翼をもつ鳥のように足を組んだまま進みます。月や太陽も手で触れ、天の世界の梵天界も肉体をもったまま到達します。
たとえば、それは熟練した陶工が粘土を好きな形の陶器を作り上げるようなものです。
象牙職人が望み通りの象牙細工を完成させるようなものです。金細工職人が望み通りの金細工を作るようなもの。
〈天耳の智・天耳通〉
天の耳(天耳通)も獲得し清浄にして超人的な天の耳によって遠くであれ、近くであれ、天と人間、両方の声を聞くのです。
それはたとえば、大道を行く人が、大太鼓、小太鼓、法螺貝、シンバル、ドラの音を聞き分けるようなものです。
〈他心を知る智・他心智〉
他人の心を知る智(他心智)も獲得して、他の生けるものたち、他の人々の心を、自分の心で熟知し洞察します。
貪りある心を貪りある心と洞察します。貪りから離れた心を、貪りから離れた心と洞察します。怒りの心、愚痴の心、委縮した心、散漫な心、広大な心、無上の心、安定した心、解脱した心も同じように洞察します。
それはたとえば、鏡をみて自分の顔をよく観察して、ほくろがあればほくろがあると知り、ほくろがなければほくろがないと知るのと同じようなものです。
〈過去の生存を想起する智・宿住随念智〉
過去の生存を想起する智(宿住通)も獲得して、何世代前の過去での生存や、破壊の劫や創造の劫すべて想い起すのです。「過去のわたしはこういう名前で。。。、」を想起するのです。
それはたとえば、ある人が自分の村から他の村に行き、さらにその村から別の村に行き、自分の村へと戻ってきたとします。彼はわたしは自分の村からあの村に行き、そこではこのように立ち、このように座り、このように語り、このように沈黙していた。またその村から別の村に行き、このように立ち、このように座り、このように語り、このように沈黙して、自分の村に戻って来たと考えるようなものです。
〈天眼の智・死生智〉
逝ける者たちの死と再生に関する智(死生智)も獲得して、心を向けます。かれは清浄で超人間的な天の眼によって、生ける者たちが、劣ったもの、優れたもの、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものとして、死に変わり生まれかわるのを見ます。いけるものたちがその行為に応じて転生するのを洞察します。生きるものは、身体による悪行、言葉による悪行、心による悪行を身につけ、聖者たちを誹謗し、邪悪な考えをいだき、邪悪な考えによる行為に耽る。かれらは肉体が滅んだ死後、苦処、悪道、悪趣、地獄という世界に再生する。別の生ける者たちは身体による善行、言葉による善行、心による善行を身につけ、聖者たちを誹謗せず、正しい考えをもち、正しい考えによる行為をなす。かれらは肉体が滅んだ死後、善道、天界という安楽な世界に再生する。と洞察します。
それはたとえば、町の中心の十字路に高い建物があり、そこに目のよい人が立って、ある人々が家に入ったり出たり、また別の人が道を行き来していたり、道の真ん中で座っている人観察して、「この人たちは家に入っていく、この人は出ていく、この人たちは道を行き来している、あの人は坐っている。」と考えるようなものです。これがさらに優れた修行の眼に見える果報です。
〈煩悩を滅する智・漏尽智〉「四諦を洞察します」
諸煩悩を滅する智慧(漏尽智)を獲得して、心を傾けます。するとかれは、
「これが苦しみである」「これが苦しみの原因である」「これが苦しみの滅尽である」「これが苦しみの滅尽にいたる道である」とあるがままに洞察します。
「これらが諸煩悩である」「これらが煩悩の原因である」「これらが煩悩の滅尽である」「これが煩悩の滅尽にいたる道である」とあるがままに洞察します。
このように観察すると、欲望の煩悩からも心は解放され、生存の煩悩からも心は解放され、無知の煩悩からも心は解放されます。
解放されたときに、解脱の認識が生まれます。それは「輪廻の再生はなくなった。梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや再びこの迷いの世界に生まれかわることはない。」と洞察します。
それはたとえば、山の頂上に澄んで清らかで静かな池があり、眼の良い人がその岸辺に立って、牡蠣や貝、砂利や小石、魚の群れなどを見るとするでしょう。すると彼は、これは澄んで静かな池で、牡蠣や貝、砂利や小石、魚の群れがあるとこのように考えるようなものです
《アジャータサットゥ王子がブッタに帰依》
アジャータサットゥ王子はブッタにお礼を伝えます。「倒れたものを起こすように、覆い隠されたものを取り外すように、迷ったものに道を教えるように、暗闇にともし火を掲げ、人々が見えるようにするように」それとまったく同じように、世尊はさまざまな方法で、真理の教えを説き示してくださいました。わたしは、世尊(仏)に帰依し、真理の教えに(法)に帰依し、修業僧の集団(僧)に帰依いたします。在家の信者としてお認め下さいますように。世尊よわたしはおろかさのままに、迷いのままに、悪いままに罪を犯してしまいました。わたしは統治権を得たいために、自分の父のビンビサーラ王を殺してしましました。将来の自己自制のために、わたしの子の罪を罪として、世尊はありのまま受け入れてくださいますように。
ブッタは答えます。「王子よあなたが罪を罪として認め、法に従って懺悔するからには、わたしたちはあなたを受け入れましょう。なぜならば罪を罪と認め、法に従って懺悔し、将来において自己自制するということ、それこそがブッタの戒律であるからです。」
そして、王子はブッタに感謝の礼を伝えて終えて退出しました。
王子が退出してからブッタが修行僧に語ります。「かの王は悪い自己が掘り出され、悪い自己が破壊された。かの王が父であるビンビサーラ王を殺さなかったならば、まさにこの座において、塵のない汚れのない法眼が生まれたに違いない」
《沙門果経まとめ》
「沙門果経の修行ポイント」
・戒をそなえて、
・感覚器官の防御をして、
・注意力と明瞭な意識で行動して、
・満足する。
そして、
・五蓋を除去して、
・四禅の瞑想で、
・無我の理解洞察をして、
・四諦を体現する。
修業内容です。
しかしアジャータサットゥ王子は法眼が生まれなかったんだね。
こうやってお経の中の「ひとつひとつの教え」を理解していけば、
慧解脱・心解脱、倶分解脱した、阿羅漢の境地「想受滅」がわかってくるよね!
「図解」ブッダの教えも参考にしてください!
梵網経と沙門果経の教えの理解が出来たら、他のお経も読むのがたのしくなりますよ!
是非、本物の原始仏典も手に取って読んでみて下さい!
えん坊、「法眼が開いた人」は他のお経にでてくるので、お楽しみに!(笑)
現代語で翻訳されている主な「原始仏教・パーリ仏典」
①春秋社「原始仏典」
この春秋社の「原始仏典」は、イギリスのパーリ聖典協会のPTS版(パーリ・テキスト・ソサエティ)を底本(翻訳のもとにした本)にして、中村元先生はじめ森祖道先生、前田専学先生、浪花宣明先生、その他たくさんの仏教専門のエキスパートの先生方が翻訳に携われています。


春秋社の「原始仏典」の中村元先生の序文の解説では、
ブッダ自身の布教していた時代とそれに続くお弟子さんたちの時代、およそ紀元前3世紀ころまでを「原始仏教」時代といいます。一つの仏教教団が上座部と大衆部に分裂して、さらに細かく分裂して部派仏教が発生しました。部派仏教のひとつ上座部の部派がインドよりスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムと南伝仏教が伝えていき、現在この上座仏教の伝えるパーリー語の原典が、現存する者の中で内容が一番完備している。と説明されてます。春秋社「原始仏典」序文の解説より
②大蔵出版「パーリ仏典」片山一良先生著
片山先生は、大蔵出版からビルマ第6結集(1954年)の教典を底本にした「パーリ仏典」長部全6巻・中部全6巻・相応部全10巻を翻訳して出版されています。


③大宝輪閣「パーリ仏典入門」片山一良先生著
また、大宝輪閣から「パーリ仏典入門」を出版されています。入門と題されていますが、
パーリ仏典「三蔵」の全体を解説されています。膨大な経典数の把握がとても理解しやすいので大変おすすめです。


大法輪閣の「パーリ仏典入門」の片山一良先生のパーリ仏典の解説では、
「上座部仏教」(テーラワーダー)の聖典で、長老(テーラ)たちによって実践され、説かれ、伝持された仏教、「伝統の仏教」と説明されています。大法輪閣「パーリ仏典入門」著者:片山一良より
④Kindle版 「小部経典・ブッダの福音」 全10巻 正田大観先生 翻訳
正田大観先生はビルマ第六結集の経典を改訂した『国際版パーリ三蔵』を底本として「小部経典」を翻訳されてamazonにて出版されています。
画像はamazonより参照
小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~
それに、ブッダ当時の6人の外道とかいろんな修行者のユニークなエピソードもでてきて楽しいね~!
原始仏典には、ほんと色んな神様や悪魔とかもでてきて楽しいね!
現代の日本語で読めるのが本当にありがたいよね!