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死体の観察 長部教典 第22経 大念処経(だいねんじょきょう)③
死体の観察・身体の観察 「身受心法」(しんじゅしんほう)
長部経典 第22経「大念処経」(だいねんじゅきょう)のほぐし読みの第3話の「死体の観察」になります。大念処経は、すべてが瞑想の教えになります。頭の中で身受心法を実修しているイメージで読み進めることをおすすめします。長いお経ですので、段落で分けて紹介します。ピンク色の文字は図解で解説がありますので、図解↓と連動して読んでみて下さい。
『大念処経ほぐし読み①』はこちらです
《墓場の死体の観察》
「第一段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体が、死後一日、あるいは二日、あるいは三日と経つうちに、膨張し、青黒くなり、腐ってくるのを見るように、かれは、「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
「第二段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体が、カラスについばまれ、あるいは鷹についばまれ、あるいは鷲についばまれ、あるいは犬に食い荒らされ、あるいはいろんな虫に食われているのを見るように、かれは「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
「第三段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骸骨に血や肉が付いて、筋がつながっているのを見るように、かれは「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
「第四段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骸骨にすでに肉はなく、血だけが付いて筋がつながっているのを見るように、かれは「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
「第五段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骸骨にすでに肉や血はなく、筋だけが繋がっているのを見るように、かれは「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
「第六段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骨が砕け散って、そこに手の骨、そこに足の骨、そこに脛の骨、そこに腿の骨、そこに腰の骨、そこに背骨、そこに頭蓋骨とばらばらになってあちらこちらに散乱しているのを見たときに、かれは「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
「第七段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骨が白い貝と同じ色になっているのを見たとき、かれは「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
「第八段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骨が積み重なって一年経過したものを見たときに、かれは「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
「第九段階」
またさらに、修行僧たちよ、修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、骨が腐食して粉々になったものを見たときに、かれは「この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、このような運命を免れえないものである」と見るのです。
このように、内に、自分自身の身体について身体を観察し、
また、客観的に自分の身体について身体を観察し、
あるいは内と外、自分自身の身体について身体を観察していくのです。
また、身体の中で生起してくる現象を観察し、
また、身体の中で衰滅する現象を観察し、
また、身体の中で生起し衰滅していく現象を観察していくのです。
そして、観察して知った分だけ、観察して記憶した分だけ、
「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、自分自身には現れてくるのです。
そうすると、なにかに依存するということがなく、
この世のなかで、なにものにも執着しないのです。
修行僧たちよ、修行僧はこのようにして身体について身体を観察するのです。
ほぐし読み③ここまでおわり
「死体の観察」
- 身受心法の「身」の観察する瞑想です。
- 身体は清らかなものではなく、不浄なものを死体をイメージ観察して、この世における貪欲や憂いの対象からの離脱や除去していく瞑想部分になります。
死体の観察が出てくる他のお経を見てみましょう。
死体の観察がでてくるお経
中部経典 第13経「大苦蘊経」(だいくうんきょう)
《死体の観察》は、
中部経典 第13経「大苦蘊経」(だいくうんきょう)
にもこんな描写がされて、でてきます。
ブッダは比丘達に問いかけます。
「比丘達よ、クシャトリアの娘、あるいはバラモンの娘、あるいは家主の娘、15才、16才くらいの娘で、背は高すぎず低すぎず、痩せすぎず肥すぎず、黒すぎず白すぎない娘がいる。比丘達よ、その娘は清らかで美貌に輝く最高のものか?」
「では、比丘達よ。同じその娘が、80才、90才、100才になったのを見るとしよう。老いて、垂木のように身が曲がり、杖にすがって行き、震えつつ行くのを見る。病んで、青春は去り、歯は抜け、白髪で髪は抜け落ち、しわだらけで、しみだらけで、比丘達よそれをどう思うか?
最初は清らかに輝いていたその容姿は消え失せて、苦しみと患いが現れていると思うか?」
身体の観察が出てくる他のお経も見てみましょう。
身体の観察がでてくるお経
中部教典 第119経「念身経」(ねんしんきょう)
中部教典 第119経「念身経」(ねんしんきょう)
にも「身体にむけた注意」と身体の観察の瞑想がでてきます。
身体にむけた注意を養成すると、悪(マーラ)がつけいるすきがないと解説されています。さらに身体にむけた注意を養成すると、「十の利益」が得られます。
【十の利益】
1、好き嫌いが克服できる
2、恐れと怖気(おじけ)を克服できる
3、寒さ、暑さ、飢え。渇き、蚊、虻、風、熱、蛇の接触に堪えれるようになる
4、四つの禅定(四禅)を思うままに難なく得られる
5、神足通を多種多様に操れる
6、天耳通が得られる
7、他心通が得られる
8、宿命通が得られる
9、天眼通が得られる
10、漏尽智に達してとどまれる
今回は死体を観察して、死んでいる自分をも観察しているね!ほんと驚きの修行だね!
ほかのお経もまた紹介して瞑想の理解を深めようね!