「図解」ブッダの教え PR

大念処経(だいねんじょきょう)の瞑想方法 わかりやすい「図解②」ブッダの教え

大念処経「図解②」
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大念処経(だいねんじょきょう)をわかりやすく「図解」で2回に分けて説明します。四念処(しねんじょ)の「身・受・心・法」の「身・受・心」は図解①で解説しています。こちらは「法」の図解②になります。

図解①はこちらです↓

えん坊
えん坊
ねぇ、ぼーさん!大念処経の「身受心法」の「法」の部分を教えてよ!
ぼーさん
ぼーさん
そうだね!えん坊!続きを見てみよう!

とても項目が多く長いので、急いで読み進めずに、目次を活用してじっくり読んでみてください!ほぐし読みと連動していきます!

こちらは後半の図解②です

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大念処経(だいねんじょきょう)「図解②」

大念処②

図解①前半は 「ブッダの宣言」

で説法が始まり。

①身体の観察について「①~④で身受心法」

②感受の観察について

③心の観察について

とブッダが説法をします。そして次に法の観察に入ります。

④法(ほう)の観察(もろもろの事象)

1.五蓋(ごがい)の観察について

《五つの障害の五蓋についての法の観察》

内に欲望があるときは「わたしの内に欲望がある」と知る。
内に欲望がないときは「わたしの内に欲望がない」と知る。
まだ生じていなかった欲望が生じると、生じるままにその欲望を知る。
すでに生じている欲望が捨てられると、捨てられるままにその欲望を知る。
すでに滅ぼされた欲望が未来に生じることがないようにと知る。

内に怒りがあるときは「わたしの内に怒りがある」と知る。
内に怒りがないときは「わたしの内に怒りがない」と知る。
まだ生じていなかった怒りが生じると、生じるままにその怒りを知る。
すでに生じている怒りが捨てられると、捨てられるままにその怒りを知る。
すでに滅ぼされた怒りが未来に生じることがないようにと知る。

内にこころの落ち込みとねむけがあるときは「わたしの内にこころの落ち込みとねむけがある」と知る。
内にこころの落ち込みとねむけがないときは「わたしの内にこころの落ち込みとねむけがない」と知る。
まだ生じていなかったこころの落ち込みとねむけが生じると、生じるままにそのこころの落ち込みとねむけを知る。
すでに生じているこころの落ち込みとねむけが捨てられると、捨てられるままにそのこころの落ち込みとねむけを知る。
すでに滅ぼされたこころの落ち込みとねむけが未来に生じることがないようにと知る。

内にこころの浮つきと後悔があるときは「わたしの内にこころの浮つきと後悔がある」と知る。
内にこころの浮つきと後悔がないときは「わたしの内にこころの浮つきと後悔がない」と知る。
まだ生じていなかったこころの浮つきと後悔が生じると、生じるままにそのこころの浮つきと後悔を知る。
すでに生じているこころの浮つきと後悔が捨てられると、捨てられるままにそのこころの浮つきと後悔を知る。
すでに滅ぼされたこころの浮つきと後悔が未来に生じることがないようにと知る。

内に疑いがあるときは「わたしの内に疑いがある」と知る。
内に疑いがないときは「わたしの内に疑いがない」と知る。
まだ生じていなかった疑いが生じると、生じるままにその疑いを知る。
すでに生じている疑いが捨てられると、捨てられるままにその疑いを知る。
すでに滅ぼされた疑いが未来に生じることがないようにと知る。

《五蓋の解説》

五蓋(ごがい)とは、覚りの修行の瞑想の邪魔になる五つの障害です。
五蓋も煩悩のことですが、特に瞑想修行に入るときに邪魔になる五つの煩悩で、
こころに覆いかぶさる”フタ”として表現されています。
瞑想に入る前に取り除く必要があります。

 

①貪欲(とんよく)

むさぼることです。

常と思う
楽しいと思う
我があると思う
浄らかであると思う

ブッダの真理と真逆の「常楽我浄」、四顛倒(してんどう)に、意を注ぎ、盛んに心を活動させると、貪りのこころが生起してきます。

《貪欲の予防策》
まさにこの四念処の身受心法で常楽我浄を打破することです。

 

②瞋恚(しんに)

怒りのことです。

自分にとって邪魔なものに、意を注ぐと怒りが生起します。

《瞋恚の予防法》
慈しみの心と、こころの解脱をもって正しく意を注ぐと、怒りは捨てられます。

 

③惛沈(こんじん)・睡眠(すいめん)

こころの落ち込みとねむけのことです。
不快なこと、不満や苦痛に不正に意を注ぐと、こころの落ち込みと眠けが生起します。身体がだるく、あくびがでて、身は曲がり、まどろみ、こころが退縮(たいしゅく)します。

《次の六つが惛沈・睡眠の予防策》
①過食をやめる
②行往坐臥の姿勢を正す
③光明への想いに意を注ぐ
④野外に住む
⑤友が善友である
⑥適切な話(頭陀(ずだ)支の話)
*頭陀とは、(原意:払い落とす、棄捨)で、仏教の僧侶が衣食住に関する貪欲(どんよく)を払いのけて仏道修行にはげむこと。頭陀行、乞食の行)のこと

カッサパ
カッサパ
頭陀第一とは、わしのことじゃ!カッ!
《参考》第一結集(だいいちけっじゅう)

 

④掉挙(じょうこ)・悪作(おさ)

こころの浮つきと後悔(こうかい)のことです。

心を静めない物事に不正に意を注ぐと、心の浮つきと、後悔が生起します。

《掉挙・悪作の予防策》
精神統一、心の寂静に正しく意を注ぐと捨てられます。

 

⑤疑惑(ぎわく)

ブッダの教えを疑うことです。

疑惑がある思想に、不正に意を注ぐと疑いが生起します。

《疑惑の予防策》
仏法僧に帰依することです。

五つの障害の欲望の五蓋を、四正断で観察しています!

「四正断・ししょうだん」(四正勤・ししょうごん)
七科三十七道品の第二番目の行法です。四種の正しい努力を意味します。
四正断を実修すると、精進ができます。
八正道の身口意を正す正精進も、この四正断に収まります。

・律儀断(りつぎだん)
「まだ生じていない不善(悪)を生じさせない」ことです。

・断断(だんだん)
「すでに生じた不善(悪)を捨てる」ことです。

・随護断(ずいごだん)
「まだ生じていない善を生じさせる」ことです。

・修断 (しゅうだん)
「すでに生じた善を増大させる」ことです。

この四正断を念いながら五蓋を取り除き、法を観察して瞑想を精進していく瞑想になります。

五蓋の観察のあとにこちらの説法が続きます。

《すべての観察方法の後で、ブッダが説法している生起の法と衰滅の法の教えです↓》

このように、内部にもろもろの事象のについて観察して、外部にもろもろの事象の法について観察して、
内部と外部からもろもろの事象の法を観察していくのです。

もろもろの事象の法について生起の法を観察して、もろもろの事象の法について衰滅の法を観察していくのです。

観察して知った分だけ、記憶した分だけ、
「ただもろもろの事象の法のみが存在する」という念いが現れ起こるのです。

そして、なにものにも依存しなくなり、世間のなにものをも執着しなくなります。

このように、もろもろの事象の法について心を観察していくのです。

『身体の観察の一番最初の入息出息を行うものは、順を追って思考していきます。』

をここでもう一度確認しておきます。

《中部第10経 及川真介先生の解説を参考にして、思考の順番を解説すると》

1、入息出息は何に依存しているのか?
2、それは、業によって生じる身体に依存している。
3、身体は六処の感覚器官があり依存している。
4、六処の感覚器官の接触の対象が煩悩になり依存している。
5、依存する煩悩・渇愛の原因は、十二縁起支の縁によって生起する法にすぎない。
6、生起した煩悩・渇愛が(瞑想で)心から滅してなくなる、衰滅の法を観察する。

7、諸行無常・諸法無我・一切皆苦を念ずる観察を増大させる。
8、「ただ身体のみが存在する」とありのままの自分に気付く。
9、渇愛・邪見に依存しなくなる。

ぼーさん
ぼーさん
もろもろの事象(法)の五蓋の観察は、自我に執着して、十二縁起の縁で煩悩である五蓋を増大させている、

自分の五蓋を瞑想で観察して、その五蓋の煩悩を捨て去り、

そこからさらに、無常・無我・苦を「念じそなえて」実修して、

なにものにも依存しなくなる瞑想になりますね!

次に、五蘊(ごうん)の観察に入ります。

2.五蘊(ごうん)の観察について

《五つの要素の五蘊についての法の観察》

色かたちの「色」がある。色の生起がある。色の衰滅がある。
感受の「受」がある。受の生起がある。受の衰滅がある。
想念の「想」がある。想の生起がある。想の衰滅がある。
形成力の「行」がある。行の生起がある。行の衰滅がある。
識別の「識」がある。識の生起がある。識の衰滅がある。

このように、内部に五取蘊のもろもろの事象の法について観察して、外部に五取蘊のもろもろの五取蘊の事象の法について観察して、
内部と外部から五取蘊のもろもろの事象の法を観察していくのです。

五取蘊のもろもろの事象の法について生起の法を観察して、五取蘊のもろもろの事象の法について衰滅の法を観察していくのです。

観察して知った分だけ、記憶した分だけ、
「ただ五取蘊のもろもろの事象の法のみが存在する」という念いが現れ起こるのです。

そして、なにものにも依存しなくなり、世間のなにものをも執着しなくなります。

このように、五取蘊のもろもろの事象の法について心を観察していくのです。

五蘊(ごうん)

《五蘊の解説》

五蘊の「色受想行識」は、「色」のみが物質で、その他の「受想行識」は心理作用です。
この五つの集まりで存在するのがブッダの諸法無我の教えです。

ここでは「色」の物質で触れた対象の執着「五取蘊」もでてきますので、合わせて解説します。

 

・色(シキ・からだの肉体)

色蘊(しきうん)ともいわれます。
・色、形あるもの。認識の対象となる物質的存在の総称
・物質的要素

 

身体の肉体と

眼、耳、鼻、舌、身の5つの感官能力「五根・ごこん」 (意を含めて六根・ろっこん)の、

眼識・耳識、鼻識、舌識、身識の5つの知覚および認識「五識 ・ごしき」(意識を含めて六識・ろくしき)で、

色、声、香、味、触の5つの認識した対象物が「五境・ごきょう」(法・こころの対象を含めて六境・ろくきょう)です。

その感知する五根(六根)・五識(六識)、感知された五境(六境)の総称が「色蘊」となります。

 

・受(ジュ・感受するこころの作用)

受蘊(じゅうん)ともいわれます。
・感受作用
・感覚的感受

上記の色の肉体的、生理的な感覚の
根(六根)と、識(六識)と、境(六境)とが、接触から生じて、
自分の内に「苦・楽・不苦不楽」のいづれかで感受します。

 

・想(ソウ・思い浮かべる心理作用)

想蘊(そううん)ともよばれ
・表象作用
概念的な事柄の認識。物事の形象を心の中に思い浮かべること。

 

・行(ギョウ・形成しようとする意識)

行蘊(ぎょううん)ともよばれ
・意識を生じる意志作用
意志形成力
潜在的形成力
心がある方向に働くこと。

身体で感受して、心で想ったことを、無意識で、「なにか形成しよう、作り出そうとする」働きです。

 

・識(シキ・判断する識別する心理作用)

識蘊(しきうん)ともよばれ
・認識作用
・識別作用

対象を識別、区別して知ること。判断するこころ。

 

五蘊の対象に執着することを、「五取蘊」(ごしゅうん)といいます。

ぼーさん
ぼーさん
五蘊で認識した対象物が煩悩に生起していくのと、衰滅していくのを観察する瞑想になりますね。

煩悩の実体と、三界の瞑想の境地の「受」も参考下さい!瞑想の境地の位置もイメージしやすくなりますよ。↓

次に、六処(ろくしょ)の観察に入ります。

3.六処(ろくしょ)の観察について

《六処についての法の観察》

を知り、色かたちの色を知り、その二つによって生じた束縛を知るのです。
まだ生じていなかった束縛が生じると、生じるままにその束縛を知る。
すでに生じている束縛が捨てられると、捨てられるままにその束縛を知る。
すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないようにと知る。

を知り、声や音を知り、その二つによって生じた束縛を知るのです。
まだ生じていなかった束縛が生じると、生じるままにその束縛を知る。
すでに生じている束縛が捨てられると、捨てられるままにその束縛を知る。
すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないようにと知る。

を知り、香りを知り、その二つによって生じた束縛を知るのです。
まだ生じていなかった束縛が生じると、生じるままにその束縛を知る。
すでに生じている束縛が捨てられると、捨てられるままにその束縛を知る。
すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないようにと知る。

を知り、を知り、その二つによって生じた束縛を知るのです。
まだ生じていなかった束縛が生じると、生じるままにその束縛を知る。
すでに生じている束縛が捨てられると、捨てられるままにその束縛を知る。
すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないようにと知る。

身体を知り、触感を知り、その二つによって生じた束縛を知るのです。
まだ生じていなかった束縛が生じると、生じるままにその束縛を知る。
すでに生じている束縛が捨てられると、捨てられるままにその束縛を知る。
すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないようにと知る。

心の意を知り、心の意の対象のもろもろの法を知り、その二つによって生じた束縛を知るのです。
まだ生じていなかった束縛が生じると、生じるままにその束縛を知る。
すでに生じている束縛が捨てられると、捨てられるままにその束縛を知る。
すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないようにと知る。

このように、内部に六処の対象のもろもろの事象の法について観察して、外部に六処の対象のもろもろの事象の法について観察して、
内部と外部から六処の対象のもろもろの事象の法を観察していくのです。

六処の対象のもろもろの事象の法について生起の法を観察して、六処の対象のもろもろの事象の法について衰滅の法を観察していくのです。

観察して知った分だけ、記憶した分だけ、
六処の対象のもろもろの事象の法のみが存在する」という念いが現れ起こるのです。

そして、なにものにも依存しなくなり、世間のなにものをも執着しなくなります。

このように、六処の対象のもろもろの事象の法について心を観察していくのです。

《六処の解説》

・六根(ろっこん)・六処(ろくしょ)

眼、耳、鼻、舌、身、意の6つの感官能力の根本「六根・ろっこん」六処です。

 

その根本の六処が、それぞれ知覚および認識することを、

 

・六識(ろくしき)

眼識・耳識、鼻識、舌識、身識、意識で、
6つの知覚および認識「六識・ろくしき」といいます。

 

その六識が認知したそれぞれの対象物が、

 

・六境(ろくきょう)

色、声、香、味、触、法で、
6つの認識した対象物「六境・ろくきょう」といいます。

 

・十二処(じゅうにしょ)は、

「六根」の眼、耳、鼻、舌、身、意の主観的機能と、
「六境」の色、声、香、味、触、法の客観的な対処領域で、
「十二処」といいます。「十二の領域」とも表現されます。

 

*六根と六識は同じ意味でも使われます。
*六処は十二縁起支の第五支の「六処」のことです。

次に、七覚支(しちかくし)の観察に入ります。

4.七覚支(しちかくし)の観察について

《七つのさとりを得るためのことがらの法の観察》

内に念ずるというさとりを得るためのことがらがあるときは「わたしの内に念ずるがある」と知る。
内に念ずるというさとりを得るためのことがらがないときは「わたしの内に念ずるがない」と知る。
まだ生じていなかった念ずるが生じると、生じるままにその念ずるを知る。
すでに生じている念ずるというさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知る。

内に択法(ちゃくほう)というさとりを得るためのことがらがあるときは「わたしの内に択法がある」と知る。
内に択法というさとりを得るためのことがらがないときは「わたしの内に択法がない」と知る。
まだ生じていなかった択法が生じると、生じるままにその択法を知る。
すでに生じている択法というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知る。

内に精進(しょうじん)というさとりを得るためのことがらがあるときは「わたしの内に精進がある」と知る。
内に精進というさとりを得るためのことがらがないときは「わたしの内に精進がない」と知る。
まだ生じていなかった精進が生じると、生じるままにその精進を知る。
すでに生じている精進というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知る。

内に喜悦(きえつ)というさとりを得るためのことがらがあるときは「わたしの内に喜悦がある」と知る。
内に喜悦というさとりを得るためのことがらがないときは「わたしの内に喜悦がない」と知る。
まだ生じていなかった喜悦が生じると、生じるままにその喜悦を知る。
すでに生じている喜悦というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知る。

内に軽安(きょうあん)というさとりを得るためのことがらがあるときは「わたしの内に軽安がある」と知る。
内に軽安というさとりを得るためのことがらがないときは「わたしの内に軽安がない」と知る。
まだ生じていなかった軽安が生じると、生じるままにその軽安を知る。
すでに生じている軽安というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知る。

内に精神統一の「定」(じょう)というさとりを得るためのことがらがあるときは「わたしの内に定がある」と知る。
内に定というさとりを得るためのことがらがないときは「わたしの内に定がない」と知る。
まだ生じていなかった定が生じると、生じるままにその定を知る。
すでに生じている定というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知る。

内に中庸な気持ちの「捨」(しゃ)というさとりを得るためのことがらがあるときは「わたしの内に捨がある」と知る。
内に捨というさとりを得るためのことがらがないときは「わたしの内に捨がない」と知る。
まだ生じていなかった捨が生じると、生じるままにその捨を知る。
すでに生じている捨というさとりを得るためのことがらを修行して完成するということを知る。

《七覚支の解説》

七科三十七道品の第六番目の行法です。
「覚」は、さとりの智慧を意味し、大まかな考察の意味もあります。
「支」は、さとりの智慧を助けて支えるから「支」で、
七つの智慧の支えで「七覚支」です。

 

・念(ねん)「念覚支」(ねんかくし)

失念せずに、自失せずに、常に注意力をもっていること。こころを一点にとどめて気を付けることです。

思念ともいわれ、思念そのものが念という覚りのことがらの念覚支の上にたつ諸法とも解説されています。

《念と思念の意味は》

念(ねん)
①対象を記憶して忘れないこと
②こころが放縦にならないように気をつけ注意力が具わっていること
③無常・苦・無我をつねに念頭におく、四念処(しねんじょ)のこと

と意味されます。

思念(しねん) 漢訳では、記・智・念・正念などと訳される。
・記憶する
・心に留める
・想起するの意味

《思念の生起に役立つことがら》
・思念を正しく知る
・妄念を避ける
・思念が確立した人に仕える
・その思念を志向・信解(しんげ)する

 

・択法(ちゃくほう)「択法覚支」(ちゃくほうかくし)

智慧によって、教えの中から真実を選びとり、偽りのものを捨てることです。

《択法の生起に役立つことがら》
・よく質問する
・ものごとを明瞭にする
・感覚器官の六根を等しく保つ
・劣慧の人を避ける
・智慧のある人に正しく仕える
・深く知って行い省察する
・それを志向・信解する

 

・精進(しょうじん)「精進覚支」(しょうじんかくし)

正しい努力のことです。

《精進の生起に役立つことがら》
・苦界の恐怖を省察する
・功徳を見る
・行道を省察する
・托鉢を尊ぶ
・仏の遺産が大きいことを省察する
・師が偉大であることを省察する
・生まれが偉大であることを省察する
・同じ梵行者が偉大であることを省察する
・怠惰の人を避ける
・精進に励む人に近づく
・その精進を志向・信解する

 

・喜悦(きえつ)「喜覚支」(きかくし)

瞑想の実践で得られる悦びのことです。

《喜悦の生起に役立つことがら》
・仏・法・僧・戒・施捨・神格のそれぞれを追憶する
・寂静を追憶する
・卑しい人を避ける
・潤いのある人に親しむ
・浄信すべき経典を省察する
・その喜悦を志向・信解する

 

・軽安(きょうあん)「軽安覚支」(きょうあんかくし)

心身の軽やかさのことです。

《軽安の生起に役立つことがら》
・すぐれた食事
・季節の快適さ
・行往坐臥の快適さ
・中庸をもちいる
・激情に身をまかせる人を避ける
・身が安らいでる人に親しむ
・安らぎを志向・信解する

 

・定(じょう)「定覚支」(じょうかくし)

こころを集中して乱さない精神統一のことです。

《定の生起に役立つことがら》
・物事を明瞭にする
・感覚器官を等しく保って行う
・特徴の把握に巧みである
・あるときは心を励ます
・あるときは心を抑える
・あるときは心を鋭くする
・あるときは無視する
・心が統一されていない人を避ける
・心が統一された人に親しむ
・禅定による解脱を省察する
・精神統一を志向・信解する

 

・捨(しゃ)「捨覚支」(しゃかくし)

対象への執着がなく偏ったこころもない「中庸・ちゅうよう」な気持ちです。

《捨の生起に役立つことがら》
・有情(うじょう・生存する者・衆生と同意語)に中庸である
・ものごとに中庸である
・ものごとを愛好する人を避ける
・ものごとに中庸な人に親しむ
・捨を志向・信解する

「*役立つことがらは中部10経 及川真介先生の解説より」

「支」は、さとりの智慧を助けて支える

サマタ瞑想の一種、四禅(しぜん)の瞑想に入るときは、
五つの「支」の、五禅支(ごぜんし)「尋・伺・喜・楽・一境性」が得られます。
四禅では五禅支をひとつひとつ手放して一境性のみにしていくのですが、

この念処経の七覚支を観察するヴィパッサナー瞑想では、
瞑想で得られる七つのさとりの智慧を助ける「支」の精神作用を観察をして、
それぞれの「支」の獲得を完成させる瞑想になります。

ぼーさん
ぼーさん
観察するヴィパッサナー瞑想では、欲望の支配する欲界で五蓋の煩悩があるかないかを観察し、五蓋の欲望を捨て去って色界に入り、覚りの智慧の支えもあるかないかを観察していくのですね!

そして、精神統一のサマタ瞑想の四禅でも五蓋を取り除いてから、色界の世界で、純粋な精神作用の五禅支も手放していくことになりますね!

そこからさらに、色がない無色界の瞑想に入り、

最終目的は、想も受もない「想受滅」になりますね!

次に、四諦の観察に入ります。

5.四諦の「苦」の観察について

*「これは苦である」「これは苦の原因である」「これは苦の消滅である」「これは苦の消滅の実修である」と四諦を観察して、その思念の果報で中部10経「念処経」は終わります。

その続きの部分に相当するのが、中部経典141経「諦分別経」ですが、このお経ではブッダが解説するのではなく、サーリプッタが説法しています!

サーリプッタ
サーリプッタ
四諦はとても大事なのじゃ!ニヤリ!

・「苦諦」の苦の真理について

《苦の真理の法の観察》

生まれることは苦しみ、老いることは苦しみ、死ぬことは苦しみ、憂い、悲しみ、苦痛、苦悶、悶えは苦しみで、

求めても得られないのは苦しみとは、
・生まれる性質の生きものなのに、生まれてこなければよかったのにと思う
・老いる性質の生きものなのに、老いることがなければいいのにと思う
・病気になる性質の生きものなのに、病気にならないといいのにと思う
・死ぬ性質の生きものなのに、死ぬことがなければいいのにと思う
・憂い、悲しみ、苦痛、苦悶、悶える性質の生きものなのに、憂い、悲しみ、苦痛、苦悶、悶えることがなければいいのにと思う。

それは、

五つの執着の要素は苦しみで、
・色蘊(しきうん)の執着は苦しみ
・受蘊(じゅうん)の執着は苦しみ
・想蘊(そううん)の執着は苦しみ
・行蘊(ぎょううん)の執着は苦しみ
・識蘊(しきうん)の執着は苦しみ

五取蘊(ごしゅうん)の執着は苦しみの真理なのです。

ぼーさん
ぼーさん
五蘊の「色受行想識」の対象になる、すべての五取蘊は「苦」になることが詳しく説法されています。

ここでは、「生老死」で説法されていて怨憎会苦、愛別離苦もでてこないので、四苦八苦がまだ成立されていない初期の伝承とも考えられると解説されています。

合わせて読んでね!

・「集諦」の苦の原因について

《苦の原因の真理の法の観察》

苦しみの原因とはなにか、それは再び迷いの生存に戻すもので、
・現世の欲望に対する愛執(欲愛)
・生存への愛執(有愛)
・生存の消滅(虚無)への愛執(無有愛)

好ましいもの、楽しいものから愛執が生じて、愛執が留まっていく。

 

好ましいもの、楽しいものとは、

眼・耳・鼻・舌・身体・心は、この世における好ましいもの、楽しいものです。
そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

色かたちあるもの・声や音・香り・味わい・触知・心の対象は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

眼による眼識・耳による耳識、鼻による鼻識、舌による舌識、身体による身識、心による意識は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

眼により接触、耳による接触、鼻による接触、舌による接触、身体による接触、心による接触は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

眼の接触から生じる感受、耳の接触から生じる感受、鼻の接触から生じる感受、身体の接触から生じる感受、心の接触から生じる感受は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

色かたちを想い浮かべる表象作用・声や音を思い浮かべる表象作用・香りを想いうかべる表象作用・味わいを思い浮かべる表象作用・触知を思い浮かべる表象作用・こころの対象を想い浮かべる表象作用は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

色かたちを思い浮かべてから形成しようとする意識作用・声や音を思い浮かべてから形成しようとする意志作用・香りを思い浮かべてから形成しようとする意識作用・味わいを思い浮かべてから形成しようとする意識作用・触知を思い浮かべてから形成しようとする意識作用・こころの対象を思い浮かべてから形成しようとする意識作用は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

色かたちあるものに執着する三毒の愛・声や音に執着する三毒の愛・香りに執着する三毒の愛・味わいに執着する三毒の愛・触知に執着する三毒の愛・こころの対象に執着する三毒の愛は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

色かたちへの粗い考察・声や音への粗い考察・香りへの粗い考察・味わいへの粗い考察・触知への粗い考察・こころの対象への粗い考察は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

色かたちへの細かな考察・声や音への細かな考察・香りへの細かな考察・味わいへの細かな考察・触知への細かな考察・こころの対象への細かな考察は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこから愛執が生じ、愛執が留まっているのです。

《苦の原因の解説》

上記の五蘊で解説した、

眼、耳、鼻、舌、身・意の「六根・ろっこん」の、

眼識・耳識、鼻識、舌識、身識、意識の「六識・ろくしき」で、

色、声、香、味、触、法・こころの対象の「六境・ろくきょう」を、

感受して愛執がうまれ、そして留まっている

ことが「苦」の原因であると説法をしています。

 

これは煩悩が発生する「十二縁起」のことになります。

四諦の集諦(じったい)「苦」の原因は、感受して煩悩が生まれる十二支の縁起であり、

そして、生起した煩悩を留めているのが「苦」の原因であると説法しています。

やっぱりとても大事な教え↓

・「滅諦」の苦の消滅について

 

《苦の消滅の真理の法の観察》

苦の消滅のすぐれた真理とは、

この愛執にたいし、

残りなく欲を離れ、滅し、棄て、放棄し、解き放たれ、執着のよりどころとしないことです。

 

この愛執がどこで棄てられ、どこで滅びるのだろうか。

この世の中には好ましいもの、楽しいものがあり、そこでその愛執が棄てられ、そこで愛執が滅ぼされる。

 

好ましいもの、楽しいものとは、

眼・耳・鼻・舌・身体・心は、この世における好ましいもの、楽しいものです。
そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

色かたちあるもの・声や音・香り・味わい・触知・心の対象は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

眼による眼識・耳による耳識、鼻による鼻識、舌による舌識、身体による身識、心による意識は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

眼により接触、耳による接触、鼻による接触、舌による接触、身体による接触、心による接触は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

眼の接触から生じる感受、耳の接触から生じる感受、鼻の接触から生じる感受、身体の接触から生じる感受、心の接触から生じる感受は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

色かたちを想い浮かべる表象作用・声や音を思い浮かべる表象作用・香りを想いうかべる表象作用・味わいを思い浮かべる表象作用・触知を思い浮かべる表象作用・こころの対象を想い浮かべる表象作用は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

色かたちを思い浮かべてから形成しようとする意識作用・声や音を思い浮かべてから形成しようとする意志作用・香りを思い浮かべてから形成しようとする意識作用・味わいを思い浮かべてから形成しようとする意識作用・触知を思い浮かべてから形成しようとする意識作用・こころの対象を思い浮かべてから形成しようとする意識作用は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

色かたちあるものに執着する三毒の愛・声や音に執着する三毒の愛・香りに執着する三毒の愛・味わいに執着する三毒の愛・触知に執着する三毒の愛・こころの対象に執着する三毒の愛は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

色かたちへの粗い考察・声や音への粗い考察・香りへの粗い考察・味わいへの粗い考察・触知への粗い考察・こころの対象への粗い考察は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

色かたちへの細かな考察・声や音への細かな考察・香りへの細かな考察・味わいへの細かな考察・触知への細かな考察・こころの対象への細かな考察は、この世における好ましいもの、楽しいものです。そこで愛執が棄てられ、愛執が滅ぼされるのです。

経典では上記の部分しか表現されていませんが、生起の法と衰滅の法の観察の解説もはさんで付けておきます。

このように、内部にもろもろの事象のについて観察して、外部にもろもろの事象の法について観察して、
内部と外部からもろもろの事象の法を観察していくのです。

もろもろの事象の法について生起の法を観察して、もろもろの事象の法について衰滅の法を観察していくのです。

観察して知った分だけ、記憶した分だけ、
「ただもろもろの事象の法のみが存在する」という念いが現れ起こるのです。

そして、なにものにも依存しなくなり、世間のなにものをも執着しなくなります。

このように、もろもろの事象の法について心を観察していくのです。

《中部第10経 及川真介先生の解説を参考にして、思考の順番を解説すると》

1、入息出息は何に依存しているのか?
2、それは、業によって生じる身体に依存している。
3、身体は六処の感覚器官があり依存している。
4、六処の感覚器官の接触の対象が煩悩になり依存している。
5、依存する煩悩・渇愛の原因は、十二縁起支の縁によって生起する法にすぎない。
6、生起した煩悩・渇愛が(*瞑想で)心から滅してなくなる、衰滅の法を観察する。*下に解釈あり。

7、諸行無常・諸法無我・一切皆苦を念ずる観察を増大させる。
8、「ただ身体のみが存在する」とありのままの自分に気付く。
9、渇愛・邪見に依存しなくなる。

 

《苦の消滅の解説》

眼、耳、鼻、舌、身・意の「六根」」の、

眼識・耳識、鼻識、舌識、身識、意識の「六識・ろくしき」で、

色、声、香、味、触、法・こころの対象の「六境・ろくきょう」を、

感受して愛執がうまれ、そして留まっている

ことが「苦」の原因であることに対して、

 

「六根」「六識」「六境」で愛執が棄てられ、滅ぼされると説かれています。

ぼーさん
ぼーさん
この苦の消滅をことば通りに理解すると、
たとえば、眼で感受して愛執がうまれて、その生まれた愛執が眼で棄てられ滅びる意味になりますが、

6、生起した煩悩・渇愛が(*瞑想で)心から滅してなくなる、衰滅の法を観察する。*ぼーさんの解釈では、

冒頭で、

残りなく欲を離れ、滅し、棄て、放棄し、解き放たれ、執着のよりどころとしないこと

とブッダが説明をしているので、

自己の中で生起した愛執を観察して、その愛執に気づいて離れ棄て去り、自分の意志で衰滅させていく意味合いが強いので”(瞑想で)”とかっこを補足しています。

ちなみに、中部141経には「貪りを離れ、滅尽し、棄捨し、捨離し、解脱し、執着しないことが苦の滅尽というすぐれた真理」と簡潔にでてきます。

・「道諦」の苦の消滅方法について

《苦の消滅方法の法の観察》

苦しみの消滅にいたる道というすぐれた真理とは、

正しい見解の「正見」、正しい思考の「正思惟」、正しい言葉の「正語」、正し行動の「正業」、正しい生活の「正命」、正しい努力の「正精進」、正しい念いの「正念」、正しい精神統一の「正定」の八正道(はっしょうどう)です。

正しい見解とは、苦しみについて知ること。苦しみの原因を知ること。苦しみの消滅を知ること。苦しみの消滅にいたる道を知ることです。

正しい思考とは、俗世からの出離の思考、怒りのない思考、傷害のない思考です。

正しい言葉とは、偽わりのことばから離れ、中傷のことばから離れ、乱暴なことばから離れる、無意味でくだらないことばから離れるのです。

正しい行動とは、生きものを殺すことから離れる。与えられないものを取ることから離れる、淫らな行いから離れることです。

正しい生活とは、仏弟子が間違った生活を捨て、正しい生活手段によって生活を営むことです。

正しい努力とは、
いまだ生じていない悪いことを生起しないように意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。
すでに起きてしまった悪いことがらを断つために意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。
いまだ生じていない善いことがらをこれから生じるように意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努める。
すでに生じている善いことがらを、存続し、忘れてしまわずに、増大し、拡大し、修行が完成されるように、意欲をおこし、努力し、努め励み、こころを込めて努めることです。

正しい念いとは、
身体について身体を観察して、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪りや、憂いを除去するのです。
感受について感受を観察して、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪りや、憂いを除去するのです。
心について心を観察して、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪りや、憂いを除去するのです。
もろもろの事象(法)について、もろもろの事象を観察して、熱心に、正しく自覚し、よく気をつけて、この世における貪りや、憂いを除去するのです。

正しい精神統一とは、
さまざまな欲望を離れ、善くないことがらから離れ、粗い考察と細かい考察とを伴ない、
欲望から離れることから生じる喜びと楽しみの瞑想の第一段階、初禅に達するのです。

粗い考察と細かい考察を静めることから内心が清浄になり、こころを統一して、粗い考察と細かな考察とを伴なわない精神統一から生じる、喜びと楽しみの瞑想の第二段階、二禅に達するのです。

喜びを離れて、こころの平静があり、よく気をつけて、正しく自覚し、身体によって楽しみを感受しながら、聖者がいう「心の平静があり、よく気をつけていて、楽しみに留まっている」と説く、瞑想の第三段階、三禅に達するのです。

楽しみを捨て、苦しみを捨て、すでに喜びと憂いを滅しているために、苦しみもなく、楽しみもない、心の平静さにより、浄められている瞑想の第四段階、四禅に達しているのです。

 

このように、内部にもろもろの事象の法について観察して、外部にもろもろの事象の法について観察して、
内部と外部からもろもろの事象の法を観察していくのです。

もろもろの事象の法について生起の法を観察して、もろもろの事象の法について衰滅の法を観察していくのです。

観察して知った分だけ、記憶した分だけ、
「ただ事象のみが存在する」という念いが現れ起こるのです。

そして、なにものにも依存しなくなり、世間のなにものをも執着しなくなります。

このように、もろもろの事象、すなわち四つのすぐれた苦の真理について観察していくのです。

《苦の消滅方法の法の解説》

観察する瞑想の教えの教典でも、八正道の教えの観察が出てきています。

正しい見解の「正見」は、四諦の理解

正しい思考の「正思惟」は、俗世からの出離の思考、怒りのない思考、傷害のない思考

正しい言葉の「正語」は、嘘、中傷、乱暴なことば、無意味でくだらないことばから離れる

正し行動の「正業」は、不殺生、不偸盗戒、不邪淫戒

正しい生活の「正命」は、仏弟子が間違った生活を捨て、正しい生活手段によって生活を営む

正しい努力の「正精進」は、悪いことがなくなり、善いことを増やす、四正断

正しい念いの「正念」は、「身受心法」の四念処

正しい精神統一の「正定」は、精神統一の瞑想、四禅

 

がこの大念処経では、出ています。

詳しく解説↓

正念の説法で、「この世における貪りや、憂いを除去するのです。」と
煩悩を除去することが説かれています!

このことからも、

「身受心法」の四念処で煩悩をなくして欲界から離れて、
次の四禅で色界にいくことになります。

「四念処の観察の結果」

《四念処の観察の結果》

7年間、この四種の心の専注の四念処を修める人はだれでも、阿羅漢の智慧か、生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのない不還果が期待されるのです。

6年間でも、5年間でも、4年間でも、3年間でも、2年間でも、1年間でも、7か月間でも、6か月間でも、5か月間でも、4か月間でも、3か月間でも、2か月間でも、1か月間でも、半月でも、七日でも修める人は、阿羅漢の智慧か、生存の根元が残っているならば、この世に還ってくることのない不還果が期待されるのです。

《観察の結果の解説》

阿羅漢(あらかん)の智慧か、還ることはない不還果(ふかんか)とは、

阿羅漢果(あらかんか)は五上分結・五下分結の煩悩を滅した境地の人で応供(おうぐ)とも呼ばれます。
不還果(ふかんか)は、五下分結を滅ぼした人で阿那含(あなごん)とも呼ばれます。

《詳しくはこちら》四向四果(しこうしか)修行者の四段階

そして、最後にブッダが締めくくります。

ブッダ
ブッダ
修行僧たちよ!生きものたちの憂いと苦痛と悲しみを乗り越える、正しい道の修得のために、ニッバーナ実現のための、ただ一つの道がある!それが「四念処」です!と最初に述べたのは、このことに関して説いたのです。

大念処経の最初にブッダが宣言したことが、大念処経の結びのことばで完結します。

八正道修得のため、ニッバーナ実現のため、四念処がある。それは生きものたちの憂いと苦痛を乗り越える教えになるのです。

八正道の修得は煩悩なくして四諦の理解洞察になります。

ニッバーナ・涅槃の実現とは、煩悩がない境地なので、
この四念処の観察の瞑想で、「煩悩」に気づいて、手放し消していく瞑想になります。

この四念処の観察の瞑想で完全に煩悩が取り除けたら「四諦」の理解ができて阿羅漢の境地になり、煩悩が残っているのなら「四諦が理解できない無明」で不還果になるのですね。

煩悩がある世界が、五取蘊に囚われた日常の欲界になりますので、観察の瞑想で煩悩が残っていても、サマタ瞑想の四禅の瞑想で色界に進めばいいのがわかります。

八正道の実践の正念を徹底的に説いている内容になります。

《参考》輪廻する三界(さんがい)

修行僧たちは歓喜奉行しました。

 

マハー・サティパッターナ経  「完」

大念処経 前半はこちら

大念処経「図解①」

えん坊
えん坊
ぼーさん!仏教修行に関して最も重要なお経と言われる大念処経の最後も四諦の教えがでているね!
ぼーさん
ぼーさん
えん坊!ほんとだね!
この大念処経の四念処の身受心法は、煩悩に気づいて手放していき、欲界を離れて、色界の瞑想に行く方法だね!

煩悩をきれいに手放すことができると「苦の真理の四諦」が理解できる阿羅漢の智慧が得られるんだね!逆に煩悩が手放せないと、苦の真理の四諦が理解できないんだね。

ブッダの教えの最終目的地の「滅尽定」・「想受滅」も、苦の真理「四諦」の理解洞察になるからね!

とても長い解説になりましたけど、繰り返し繰り返し、じっくりじっくりで確認しながら読んでみて下さい!大念処経のほぐし読みでは、他のお経の紹介もしたり、いろんな角度で理解を深めていけるようにしていきますから、合わせて読んでみて下さい!